「ゴジラ-1.0」 ジャンル映画として見るか、人間ドラマ映画として見るか?
「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」11月3日公開。敗戦直後の日本を舞台に、戦争を生き延びた人々とゴジラとの戦いを描く。山崎貴が監督・脚本・VFX(特撮監督)を務める。神木隆之介、浜辺美波、吉岡秀隆、佐々木蔵之介、山田裕貴、安藤サクラらが出演。大ヒットした「シン・ゴジラ」(2016年)ぶりの国内実写ゴジラ新作。
(ネタバレを含みます)
やりたいこと、目指したことがはっきりとしている作品。脚本もキャラクターも、(ご都合主義も含め)「このシーンを撮るために、このようになっています」がはっきりとわかる。
物語は戦争末期から始まる。特攻を命じられた軍人・敷島(神木隆之介)が、大戸島に降り立つ。機体が故障したという言い分だが、配備された整備兵が調べても故障は見つからない。敷島は特攻から逃げてきたのだ。
その夜、大戸島は謎の巨大生物の襲撃に遭う。地元の人間が「ゴジラ」と呼んでいた生き物で、深海からやってくるのだという。整備兵のリーダー・橘(青木崇高)は、敷島の飛行機による銃撃でゴジラを倒せと頼むが、敷島はゴジラに怯えて機銃を操作できず逃げてしまう。結果、大戸島にいた人間は、敷島と橘を残して全滅してしまう。
(おそらくそのゴジラの後処理やなんやかやがあっている間に)敷島たちには帰還命令が出て、敗戦を迎える。生きて帰ってこれた敷島だが、東京の実家は大空襲で焼かれており、帰りを待っているはずの両親は死んでいた。特攻から逃げたことを近隣住人の澄子(安藤サクラ)に激しく責められる。軍人たちがちゃんとしなかったから、特攻でちゃんと死んでこなかったから東京の街が焼け野原になったのだと。
焦土と化した街でも、人々は少しずつ日常を立て直し始める。敷島はある日、赤子を連れた女性・典子(浜辺美波)と出会う。典子は大空襲の日、偶然居合わせた他人から赤子・明子を託され、自分で育てると決めた。典子・明子の親子は敷島の家にいつくようになり、疑似家族のような関係がスタートする……。
敷島は「特攻(敗戦)」「ゴジラ」のふたつから逃亡し、結果人の命を守ることができなかったという罪悪感と挫折感を抱く。これを解決する、つまり「今度こそ逃げずに守る」ということを達成できてようやく、彼の戦争は終わる。それまでは新しい家族に心から向き合うことも、第二の人生を前向きに考えることもできない。
1946年に米軍が行ったビキニ環礁の水爆実験により、ゴジラは放射能の力を持った生物に変化する。すみかを追われたのか、食べ物を求めてきたのか……導かれるように東京湾を目指してくるゴジラ。敷島は今度こそゴジラを倒し、彼の「戦争」を終わらせることができるのか?
このお話の基本構造を取り出すと、「逃走・敗北による着陸(映像的には左から右へ)」から始まり、「対峙・克服のための離陸(映像的には右から左へ)」で終わる。そこにいくまでのレールがしっかりと敷かれ、各キャラクターは敷島がゴジラに立ち向かうまで(かつ、生きて帰ってくるまで)の動機づけをしっかりと行うために配置されている。
その結果、ドラマパートは基本的には予想通りのものになる。キャラクターも、(これだけ演技できる役者を集めているにもかかわらず)類型的なものに収斂していく。浜辺美波は「いい奥さん(奥さんではない)」になるし、子どもは泣くかお絵かきをするか、安藤サクラはブチ切れから子どもの存在で協力的になるご近所さんへ……ただ、このキャラたちをうまく活かすドラマを用意すると、敷島の物語のノイズになりうる。そのため仕方ないだろうとも思う。
この予想通りさは必ずしもネガティブなものではない。予想(期待)を大きく超えることはないが、予想(期待)を裏切ることもない。ドラマパートの「裏切らなさ」はすごい。
一方、「ゴジラ映画」「特撮映画」「怪獣映画」というジャンル映画として見た場合、予想を超えているといっていいだろう。CGによって作られた戦後の日本とゴジラは、見ているあいだ技術的な違和感を感じさせない。(もちろんゴジラの造形は好き嫌いはあるだろうし、私は背びれの核エネルギービーム充填ギミックはロボすぎるやろと思うけれど、)CGCGしてるな〜や変だな〜〜というのを感じず2時間没入できた。また駆逐艦や重巡などを使った作戦は、いわゆるミリタリージャンルが好きな人にとってはとてもうれしい要素だろう。
私はジャンル映画はジャンル映画として見る気持ちを忘れてはいけないと思っている派で、好きな方面でも優れていたら感謝カンゲキ雨嵐だが、ジャンル映画的制約のもとにできている作品であれば、そこを満たしていないことをとりわけ否定したくないな〜と思っている。
ドラマパートの「ウーン」という感じが、ジャンル映画のよさをつぶしている場合、ウーーンとなるわけだが、本作に関してはジャンル映画として成り立たせるためにドラマパートがウーンと歪められているところを感じ(たとえばゴジラ銀座襲撃シーンの浜辺美波の行動や心情、銀座襲撃後のゴジラの行動など)、そうであればまあ不自然だったりご都合主義かもな〜と思ってはいても「まあ浜辺美波は列車内で大ピンチにあってほしいし、そのあとゴジラに押しつぶされそうになってほしいし、そこを神木に救われ、さらに神木を救い返してVSゴジラの心情的起爆剤になってほしいしな…」みたいに納得できてしまうところはある。
人間ドラマ映画を見たい人にはおすすめできないが、ジャンル映画を楽しみにしている人は見たほうがいい。「ゴジラ-1.0」はそういう作品だと思った。