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「キリエのうた」 岩井俊二の描く震災、思い浮かべた「すずめの戸締まり」「ONE PIECE FILM RED」

「キリエのうた」10月13日公開。岩井俊二監督の最新作。歌でしか自分の思いを伝えることができない少女・キリエと、彼女の周りの人々を描いた物語。主演は元BiSHのアイナ・ジ・エンドで、作中の歌唱はもちろん作詞も担当している。他出演者に広瀬すず、松村北斗、黒木華。

 

(ちょっぴりネタバレを含みます)

 



前評判を全く見ずに映画館に行ったので、途中で「ああ、真正面から震災のお話なんだ……」と驚いた。ちなみにチケット購入時にも地震描写に関する注意書きがあったので、震災にトラウマのある人は避けられるようにはなっているかと思う。評判をできるだけ見ないようにして行った初日「すずめの戸締まり」に近い感覚。どちらも物語の真ん中で、主人公が震災によって大事な人を失っていることが判明する。

岩井俊二作品らしく、時系列はわかりにくいところから始まる。

「Love Letter」を思い出すような雪原で、誰かが歩いている(観客はそれが誰か、いつなのかはわからない)。

そのまま舞台は大阪の小学校へ移る。小学生男子たちの噂話。喋れない知らない女の子が現れ、みんなはその子を「イワン(言わん)」と呼ぶ。教員(黒木華)はその少女のことを気にかける。

そしてさらに新宿の路上に移っていく。路上で歌う少女(アイナ・ジ・エンド)と、派手な髪をした女(広瀬すず)が出会う。少女はキリエと名乗り、うまく会話ができないことを明かす。派手髪の女・逸子は彼女を家に招き、「あなたのマネージャーになってあげる」と言う――。

こうして連続するシーンが、いったいどうつながっているのか最初はわからない。(もちろん、「喋らない」という共通点からイワン=キリエなのでは?と予想をしながら見るわけだが、確信はない)前半はパズルのような構成になっていて、いざ言語化しようとするとかなり危ういバランスであると感じるのだが、見ている間は魔法にかけられたように見入ってしまう。

 

バランスを成立させているのはアイナ・ジ・エンドの歌によるところが大きい。シンガー・キリエ(本当の名は路花という)の歌の、「歌でなら感情を伝えることができる」という爆発力と説得力。彼女の歌に周囲の人物が惹かれていくということが、余計な演出なしで理解できる。そういう意味では「ONE PIECE FILM RED」のウタに近い。

岩井監督はこの作品を「音楽映画」と称している。アイナ・ジ・エンドのすごい声(すごい声としか言いようがない…)がかかるたびに、登場人物の心が動き、感情の説明になり、登場人物の関係性が深まり、未来が暗示される。そういう意味でも「ONE PIECE FILM RED」。キリエがシンガーソングライターという設定なので、歌うことが自然なのもいい工夫(ここでもやはりウタがミュージシャンかつ歌を使った能力者という設定になっているので本編でいくらでも歌わせられるということを思い出した)。

 

本作は、ひとりずつ登場人物の過去の話が明かされていく。

逸子は、実は学生時代に路花と友達だった。本当の名前は真緒里。母子家庭で、三代続くスナックの一人娘、自分の人生は閉じていると思っていたが、大学への進学という希望を抱く(この希望は、現代の逸子のありようから儚く終わることがわかっているが、過去のパートではその不吉な気配を出さない)。家庭教師でやってきた男・夏彦(松村北斗)から「妹と仲良くしてほしい」と頼まれる。その妹が路花だった。

夏彦は隠しているものがある。その秘密、抱えている罪、できなかったことは、すべて東日本大震災とキリエ(路花)につながっている。夏彦の秘密を視聴者が知るとき、同時にキリエ(路花)の過去も知ることになる。

このように、明らかになるのはキリエのエピソードではなく、キリエの周りの人物のエピソードばかり。文章にしていくと書きながらあらためて驚いてしまうくらいだが、それでもやはり「これはキリエの物語なんだ」という印象がズレずにすむのは、やっぱり歌の強さのおかげなんだと思う。

 

2022年に公開された「すずめの戸締まり」は、物語の真ん中で主人公・鈴芽が震災孤児であることが明らかにされる(ちなみに前半、それを物語上は伏せているため、鈴芽の行動原理や心情がつかみにくいという避けられない欠陥が「すずめの戸締まり」にはある)。震災を隕石落下に読み替えた「君の名は。」を作り、さらに「世界が変わってしまった」気分を気候変動によって再演した「天気の子」を作った新海誠監督が、ついに震災を正面から描いた…というのは非常に大きな驚きがあった。そしてほぼ同時期に岩井監督が震災を真正面から描いた「キリエのうた」を制作・公開したというのは、やはりそれだけの時間がかかるよなというか、約10年という月日がクリエイターにとってひとつの節目なのだなと思う気持ちがある(これを早いととる人ももちろんいると思う)。

 

新海監督は震災を東京で経験している。そのときの気持ちをさまざまなインタビューで語っている。

〈震災のとき、自分は被害の当事者ではなかった。アニメを作っているいち制作者なんだというのが、なぜかとても後ろめたく感じました〉(映画「すずめの戸締まり」 新海誠監督が東日本大震災を描いたわけは|NHK

〈誰もがいろんなことを感じたと思うのですが、僕の場合、今でも続いているのは強い“後ろめたさ”のような感情なんです。たぶん、あの時みんな感じたんじゃないかと思うんですが、自分が被災者でなかったことの後ろめたさ。あるいは被害にあったのが自分の住んでいる場所ではなかったことにほっとしてしまうような後ろめたさ。「自分があそこにいてもおかしくなかった」「私があなただとしてもおかしくなかった」といったような紙一重な状況で、それなのに自分はエンタメ映画をつくっているという後ろめたさ。〉(新海誠監督、「すずめの戸締まり」で挑んだ“エンタメと震災”。未公開インタビュー - クローズアップ現代 - NHK

岩井監督は仙台出身。震災のときはアメリカ・ロサンゼルスで、故郷の近くの状況を伝える報道を見ていた。

〈震災の時、僕はロスにいて、たまたまスタッフと電話していたら、「大きな地震が来た」と電話越しに言われて、すぐテレビをつけて。向こうでNHKをやっているんですけど、すぐヘリコプターからの映像になって、程なくして津波が押し寄せてくる映像を見た記憶があるんですけど。そこに若林というテロップが出ていて。僕はまだ幼稚園に入る前でしたけど、そこのエリアに住んでいたことがあって。そこの町に津波が押し寄せていくのを見た衝撃が大きかったと思います。
地震よりもはるかに津波の被害がいまだに尾を引いていて。いずれ、何らかの形で表現しなきゃいけないかもしれない大きな課題のひとつとして、自分のふるさとを襲った津波というのが残っている気がします。〉(A sense of Rita vol.9 岩井 俊二 さん | ap bank

〈テレビを眺めていると津波の映像も流れ始め、遠く離れて時差もあるアメリカにいながら、まるで日本にいるかのような感覚で過ごしていました。

家族に連絡がつかなくなり、消息がわかる2、3日後まではとにかく心配でした。宮城に親戚が多く、ある人はふと外に目をやると目線の高さまで浸水していて、あわてて逃げて何とか助かったという話も聞きました。塩竃(しおがま)に住む親戚はビルのずいぶん高いところに避難したそうです。ビルから下に見えるショッピングモールに津波が押し寄せる様子を撮影した動画を見せてもらったのですが、その動画を見て大きな衝撃を受けました。〉(「年に一度、思いを馳せる」映画監督・岩井俊二さんに聞く3.11との向き合い方 - ITをもっと身近に。ソフトバンクニュース

東京から、アメリカから、ただ報道を見るしかない焦燥感。とんでもないことが起こって、たくさんの人が傷ついているのに、なにもできない無力感。「すずめの戸締まり」では震災の際に被災者以外(つまり、新海監督)が感じていた葛藤をフィルム内にあえて出していないが、「キリエのうた」ではまさにその思いを体現するキャラクターがいる。松村北斗演じる夏彦である。

 

言うまでもないが、松村は「すずめの戸締まり」にも出演し「閉じ師」の青年・草太役を演じている。ちなみにもともと「キリエのうた」での出演のほうが先で、公開の順番が前後したようだ。

〈松村については、新海監督が「他社の映画ですけど来月、岩井俊二監督の東映の映画で『キリエのうた』というのがあって。僕、岩井さんが『キリエのうた』を撮っている時に、現場で『北斗くんっていう子がすごくいいんだよ』と聞いて、『じゃあオーディション呼んでください』って言って、そこでフラットにオーディションをやって『彼がいいな』と選んだ」と岩井監督を通じての出会いだったことを打ち明ける〉(新海誠監督、『すずめの戸締まり』“おかえり上映”で松村北斗起用の裏話を明かす「岩井俊二さんが『キリエのうた』を撮っている時に…』|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

夏彦の弱さ、繊細さ、無力さは素晴らしかった。いろんな番宣やインタビューを見ると、どうも松村は自信をもてないままクランクアップしたようなのだが、その自信のなさが夏彦らしさになっている。「キリエのうた」が松村の代表作のひとつになるのは間違いない。弱いところを出す、揺らぐ男を演じさせたらピカイチすぎる。

 

そうした過去を超えて、いま新宿で歌うキリエはどうなるのか。もちろん岩井俊二作品なので、楽しいサクセスストーリーでは終わってくれない。キリエは大切なものを失って、得て、ふたたび失う。それでも歌は残る。

物語の最後で起こる出来事については、私はとても悲しくて、そうでない終わりであってもよかったのではと心から思う。映画「お嬢さん」のように、物語の外に出ていってしまってもよかったのではないか? ただ、岩井俊二作品であることを考えれば、こう終わるのは必然でもある…のかもしれない。その悲しさが大きすぎるし、過去作の自己模倣ではとうがってしまうところもあるので「大好きな映画」とはとてもいえないが、「見るべき映画」であるとは断言できる。