アオヤギさんたら読まずに食べた

インターネットで書いたことや考えたことなどをまとめます

「暮らし」への複雑な思い 「暮らし」はいつだってバカにされ利用されてきたので

私は元汚部屋住人で、部屋の片づけをなんとか乗り越えた過去があります。いまは二人暮らしの家を少しずつ快適な状態が長いようにいろいろ工夫をしており、ニトリにいるときは無限の夢を感じていて幸せだし、ニトリで買ったフレグランスが帰宅してふわっとにおってくると「は~~~~~~(大満足)という気持ちになります。

しかし一方で生活を整えること(ここでは「暮らし」と呼びます)にドハマリすることへは複雑な思いがあります。よく暮らすことはごく個人的なもので、かつその個人に大きな影響を与えるものでありながら、性別役割分業の風を受けやすく、かつそこから発展されて軽視されやすく、かつ利用されてきたからです。「30代の既婚の女」というタグをもつ自分がこの活動にドハマリすることは、暮らしが持たされている“偏見”を強化する方向には向かえど、その逆はないなと思います。

 

●暮らしの利用

「ていねいな暮らし」の利用については大塚英志さんの記事が非常に面白いです。

www.webchikuma.jp

この話は戦時下ですが、どんどん日本が貧しくなっていて、みんながユニクロとGUを着て、みんながニトリと100均と無印をなんとなくチェックしているという光景が当たり前になっているのを見て、「自助、共助、公助」みたいなことが言われているのを見ると、別ベクトルの話ではありますが「社会の貧しさ」というところで合流して重ね合わさるのを感じます。

社会が貧しい中で「今ここの私たちのくらし」をよいものにしようとする試みは、私たちのウェルビーイングには確かにメチャクチャ寄与するのですが、一方でそうやって勝手にウェルビーイングになってくれる人たちというのは非常に都合がいいわけです。

私はミニマリストの思想には共感しませんし、自分はなれないな~と思うのですが、一方でミニマリストのような全部を外部化していく(冷蔵庫はいらない→コンビニがあるから、卒アルを捨てる→いらないし見たくなったら誰かに見せてもらえばいい)のは意義のあることだと思っていて、一方でコロナの買い占めのときのように外部が不安定になると暮らしも不安定になるわけで、「ミニマリストやめました」みたいなの見てシュンとします。しかしミニマリストが安心して生きていける社会のほうが絶対に余裕がある社会なんですよ……。

 

●暮らしの軽視

くらし、家の中に関することはここ100年くらいの歴史的には女性が担うことが多く、ここ50年くらいの歴史的には女性の役割とされてきました。それをひきずってか、暮らしの維持というものはなんとなく軽視されている感覚があります。

この『失踪の社会学』に関する鼎談で、やや本筋とは違うトークの部分が非常に面白かった。黒嵜想さんが鬱になり、そこから「今・目の前のくらし」に集中することで回復してきたという。

note.com

 

でも詳細は省いて結果から言うと、その鬱からはひとりで解決して戻ってこれたんです。
(中略)
今日起こったことにだけ集中するって決めて日々を過ごしたんですよ。今日には今日しかないことが起こっているはずだ、と目を凝らして生活したんです。でも、特別なことをしたわけでもない。僕がしたことといえば、片付けと、料理と、服を買いに行くこと、花の世話をしてみること。そうすると、あることに気がついたんですよね。たとえば、昨日と同じ料理を作っても……ってこれ、信じられないぐらいユルいこと言ってるけど大丈夫かな……(笑)
(中略)
鬱のさなかで僕が試したのは、これまで僕がもっとも軽蔑し嘲笑していた「ていねいな生活」だった。そして、経験を経て思ったのが、いわゆる「ホモソーシャルな文化」といったものの弱点です。

このへんの話はもろに『居るのはつらいよ』と接続するので、本筋としてはそちらだと思うのですが、私は非常に率直な感想として「やっぱりていねいな生活を軽蔑し嘲笑していたんじゃん!!!!」とぷんすかしました。

 

 

まあくらしを軽蔑して嘲笑してしまうのは個人ではなく社会が悪いんですよ。 

暮らし改善本の中でも「こんまりメソッド」はややネタにされやすく(特に本やグッズが多いオタクには批判されやすいという印象)、一方で勝間和代さんのような「ライフハック」は自然に受け入れられがちです。

こんまりメソッドそのものにそもそも好悪ありますが、それはいったん置いておいて、前者からはややスピリチュアルの香りがし、後者からはしてきません。勝間さんのライフハックは相当極端なところがあり、ライフハック怪人じゃんと思うことは多いのですが、「あなたがときめかないものを捨てましょう」より「料理の際は塩分濃度をきっちり計算せよ」のほうが「なんかいい」気がするんですよ。私はこの「なんかいいよね」みたいな、ふわっとした気分よりも極端なビフォーアフターのほうが受け入れられやすい世界というものに対して猛烈な反感を抱いています。

ほとんどの暮らしというのは、発生する「マイナス」を「ゼロ」にするというまさにケア的な作業なわけですが、この作業というのはとにかく軽視されやすく(労働になったときの賃金も低い)、この作業が人間にとって大事であることというのも軽視されやすいです。

 

しかし私はそれでもなお暮らしが好きで、暮らしをよくできるとヨッシャ!となりますし、暮らしが荒れ果てていくとシュン…となります。自分にとって必要なものであるという感覚と、それ以上の愛着と、そして軽視の圧力を(内面化している自分自身からも)感じながら、今日もニトリのホームページをぼんやり見ています。

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このニトリルームフレグランス(岩)、においがふわっとしていてよいです。いまは玄関に置いている。あとニトリのシーツも最高。そうやって暮らしがニトリに支配されていく…。