片付けと他責
家が無限に荒れてくる。週末の休みの1日めは掃除から始まることが多い。
やっていることはシンプルに「捨てる」という作業が多い。届いたDMを開いて読む、捨てる。水道料金の請求を開く、スマホ決済する、捨てる。
あらかた捨てたら次は「戻す」という作業になる。本を移動させる。文房具をしまう。洗った皿を食器棚に移動させる。関西の方の方言では片付けることを「なおす」というらしいが、理解できる気がする。
こうした一連の作業を行っているとき、お腹のあたりはモヤモヤしていることが多い。主に一緒に暮らしている夫へのモヤモヤである。
これは片付けのひとつのあるあるだと私は思っているのだが、人と暮らしている空間を片付けているときって、相手のことばかりが気になる。たとえばさっきあげたDMは、私宛のものであることばかりではなく、夫宛のものであったりする。夫はこういうものを開封し処分することがあまりないので、生涯にわたってDMを開封する回数はダブルスコアどころか10倍、いやもっと上になってしまいそうだ。
実家の母のことも思い出す。母もDMの処分があまり得意ではなくて、実家の一角にはDMの山ができていた。私は溜まったそれをやぶいては、請求書はこっち、チラシはこっち、あっ電気代期限過ぎてる、とせっせと仕分けをしていた。おとなになるにつれ、こうしたDMの処分は到着したその日にやってしまうのがいいとわかるようになって、できるだけ実践しているけれど、平日の心に余裕がないと平気で溜まってしまう。
ビリビリ、ポイ、を繰り返しているとき、散らばったものを戻しているとき、私の心には他人を責める気持ちがうずまいている。はっきりとした不満の場合もあるけれど、多くは漠然としている。相手が対処できないもの、相手にとって価値のないもの、相手にとって見えないものに手を付けているとき、自分が価値のないもの、見えないものになったような気さえする。
というふうにしばらくモヤモヤと他責でいっぱいになりながら片付けていくと、ふいに「目線が上がる」ような気持ちになる。自分のエリアの、自分の片付けられていないところが見つかってくるのだ。当然のことながら、私自身にも対処しにくいもの、優先順位を下げているもの、見ないようにしているものは存在している。てかいっぱいある。普段は無意識(あるいは意図的に)で遠ざけているものが、眼の前に現れて、さっきまでの他責に突然「自分」が割り込んでくる。
この状態までくると、モヤモヤと他責、胃の上のほうがぐるぐるしている感じはふっとなくなる。まあ、その見えていないものに取り組むのにまたMPは使うんだけど。そこまでいくとようやく自分が落ち着く感じがして、できればその状態まではやりたいといつも思っている。
思うに、「片付けていない状況」そのものがかなり精神に負荷を与えているんだろう。それがひとつずつ解消されていって、目に見えるたいらな面積が増えてくると、ストレスが減って、まっすぐに自分が見れるようになるということなんじゃないか? 片付けってストレッサーの性質とコーピングの性質を持ち合わせている。