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“女性同士の連帯”の希望と幻想 『三つ編み』とトランス差別批判と

フィクションでもインターネットの世界でも、「女性同士の連帯」「女の友情」「シスターフッド」という言葉をよく見るようになった。これまで男性優位社会の中で描かれてきた「女の敵は女」「女は怖い」といった表現のカウンターだ。

こないだ読んだ『三つ編み』は、インドのダリット(不可触民)の女、イタリアの毛髪加工会社の娘、カナダのキャリアウーマンの弁護士――という生まれも育ちも全く違う、出会うことのない3人の女の人生が、「髪」(タイトルの「Tresse(三つ編み)」は女性名詞である)という一点でつながりあうという構成になっている。

 

 

三つ編み

三つ編み

 

 

フランスで100万部突破、日本では2019年4月に早川書房から刊行されて11月時点で6刷1万3500部(婦人公論の記事より)。フランスと比べると少ない数字ではあるが、一時期出版業界の人からよく聞いた「フェミニズム本は重版がかからない」という話からすると(最近は潮目が変わってきている気もする)変な言い方だが健闘している気がする。

『三つ編み』の解説をしているのはライターの高崎順子さん。本書が支持されたポイントを以下のように指摘していて、とても納得した。

〈主人公三人が、まったく異なる「属性」を備えていること。そしてコロンバニがそれぞれを彩り豊かに、優劣なく描いていることだ。

 スミタ(※インドの女)は「母」であり「妻」であり「信者」であり「旅人」である。ジュリア(※イタリアの女)は「二十代」兼「恋人」兼「友人」兼「家族」兼「雇用主」で、サラ(※カナダの女)は「四十代」と「サラリーマン」と「保護者(スミタの“母”とは違う)」と「闘病者」と「自営業者」と「シングル」の属性を備えている。三人の共通点は「女」であることだが、それを除けば重なる点はほとんどない。ざっと挙げただけで、十種類以上の属性が三人に与えられている。その多面性・重層性は、現代女性のとてもリアルなあり方だ。読者は必ずなにかしら、共感を寄せるフックを見つけることができるだろう。〉

 登場人物の三人は、「女」であること以外はほぼ共通しない人生を歩んでおり、彼女たち自身は物語の上でも出会うことがない。ただ、意識することなく、彼女たちは「髪」で交錯する。『三つ編み』の名の通り、本書はスミタ→ジュリア→サラ→スミタ→ジュリア……と三人の物語が順番につづられていくのだが、読者は彼女たちの生き方を追いかけつつ、それぞれのシーンで共感や「彼女たちが幸せになってほしい」という祈りを抱く。

(※個人的には、ラストシーンは実はスミタ/ジュリア&サラに差があるように思えている。ジュリアとサラは「髪」そのものによって救われるのだが、スミタは宗教的に定められて「髪」を捧げ、宗教的な救いを感じている。この書き方にちょっとひっかかりはあるのだが、それは読者である自分が宗教的救いに共感するところが薄いからであって、宗教的規範が強い人にとってはまた強い共感ポイントになるのかもしれない)

高崎さんの解説には非常に納得がいったが、一方でムムッと思うこともあった。これだけ多くの多様な属性がある中で、全く出会うこともない人間たちを、「女」の一言で束ねていいのだろうか。理想を言えばそれで束ねるべきではない。その束ね方に違和感がないこと自体が、現代社会の重力を表しているのだと思う。

 

自分の中で問題意識がつながっているのが、ぽてとふらいさんによるエントリ「にくをはぐ」批判批判から連なる「『まだまだ物語が必要』とはどういうことか?」だ。

note.com

このエントリでは、少年ジャンプ+に掲載されたトランス男性を扱った読み切り「にくをはぐ」を中心に、ネット上で寄せられた「主人公が既存のジェンダー規範を内面化している」ことへの批判を批判している(このまとめ文だと意味わからんちんだと思うので元エントリ読んでください)。

このエントリは後半、シス女性(の中でも特にフェミニズムを意識しているシス女性)の、トランス差別意識への批判も行っている。

 

〈動画内でも分散的に触れられているのですが「反トランスな"フェミニズム"」(この人達は自身を"ジェンダー・クリティカル・フェミニズム"と名乗ることがあります)の人が、トランス女性を否定する際によく使う論法の中に「共通の抑圧を経験していない」というものがあります。

つまり、男性として生まれた"トランス女性"は、女性として生まれた"女性"と同じ経験をしていない。だからトランス女性は女性では無い、というような論法です。
ここにはさらに、男性としての特権を受けてきた、とか、そういった形の尾ひれがくっつくのが、常です。〉

『三つ編み』に戻ると、帯には「この怒りと祈りが私たちをつなぐ」とある。高崎さんの解説にもあるように、三人の女性の怒りと祈りは、多様な属性の上に成り立っており、さらに読者である“私”は宗教観も全く異なるわけですが、「女」という属性で“私たち”としてつながれてしまう。

それはある意味では希望ですが、裏返しとして“本当につながれているのか?”という疑問が浮かんでくる。ここでつながっている“私たち”とはだれなのか? また、例えばトランス女性であり、違う“怒りと祈り”をたどってきた女性は、“私たち”としてつながることはできないのか?

という風に考えていくと、自分の中では、以下のような考え方が出てくる。上野千鶴子さんが指摘しているように現代日本には「ミソジニーという重力」が存在しており、重力というのは等しく我々にかかっているものなので、「共通の抑圧」はシス女性/男性でもトランス女性/男性でももっているものだと。……しかしここまで射程を広げてしまうと、むしろ何も言ってないのと同じというか、世界はひとつ! 的な世界観になるわけで、強い共感、強い感情移入からは遠ざかるように思う。

 

短歌ムック『ねむらない樹』4号の特集は「短歌とジェンダー」で、一人称文学としての短歌で描かれる世界の「共感」とジェンダー的賞味期限の指摘などが非常に面白い(例えば俵万智の〈「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの〉に対し「こういう時代があったという証言としての価値は残るが、久女や澄雄の句と同様に、この歌で心揺さぶられる感覚を多くの人が持つ時代は、過ぎ去ったのではないか」と指摘するなど)。

 

短歌ムック ねむらない樹 vol.4

短歌ムック ねむらない樹 vol.4

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

中には川野芽生さん、黒瀬珂瀾さん、佐藤弓生さん、山階基さんの座談会があり、川野さんの指摘が直接関係はないのだが自分の中の気持ちと少しリンクした。

ステレオタイプを利用すれば、これを言えばこれだけのことをが伝わるという量がマジョリティ寄りの人であればあるほどたくさん利用できるということです。マイノリティ寄りの人であればあるほど伝わらないことが増えていくので、言葉を尽くさないといけなくなってくるという。〉

「女性は世界最大のマイノリティ」という言葉は一般的だが、それは事実である一方で、数の上ではやはりマジョリティでもある。「女」という属性の中には避けられないステレオタイプがあり、多種多様な人々を描く際に、その属性一点で“つなげる”ことができてしまうほどの情報量がある。それはとても読者としても書き手としても強い誘惑なので、抗うのは難しいし、抗っていると意図された読みとは遠ざかっていくわけだが、しかし抗う意識をどこかにもっておかないといけないよねという……

 

ということをぐるぐる考えている日曜日だった。