「燃ゆる女の肖像」が大傑作だった話
映画「燃ゆる女の肖像」が傑作でした。見て見て。
と話はここで終わってしまうのですが、一応あらすじをまとめておくと、舞台は18世紀のフランス、肖像画を描く画家の女性・マリアンヌは、孤島の屋敷に住む令嬢・エロイーズの結婚(見合い)のための肖像画を描くために招かれる。その結婚話は本来はエロイーズの姉のところに来たはずだったが、姉の死によってエロイーズが“繰り上がった”。
エロイーズは結婚を拒んでおり、前に招かれた肖像画家は彼女の顔を描くことができないまま帰らされた。マリアンヌは画家であることを隠し、「散歩の相手」としてエロイーズと交流を持ち、窃視した彼女を肖像画に描いていく。同じ時間を過ごす中で、マリアンヌとエロイーズは惹かれていくのだが……というお話。
プロットはシンプルで、会話の数もそこまで多いわけではなく、メイン登場人物もこれにプラスしてエロイーズの母とメイド・ソフィの4人ほどなのですが、とにかくマリアンヌ役のノエミ・メルランとエロイーズ役のアデル・エネルの瞳の強さが印象的。「見る者は見られている」「見られる者は見ている」という緊張感のある関係性の説得力がすごかった。また、時折はっとするような美しさの(絵画のような構図)場面があって、2時間弱引き付けられます。
ギリシャ神話におけるオルフェウスの物語(冥府下りと振り返り)、そしてヴィヴァルディの「四季」が印象的に使われています。(とはいえ音楽に詳しくないので、こ、この曲聞いたことあ~~~~る~~~~でもタイトルは出てこ~~~んと見ながら思い、あとでググりました)。あそこで四季というのはクラシック好きな人から見るとなにかまたストーリーがあるのでしょうか。
「燃ゆる女の肖像」、「潮騒のふたり」にも感じたことなのですが、2020年に同性の恋愛を描くときに、同性であること自体を障壁にすることはフィクションとしては難しく、しかし現実はまだたくさんの壁があるという隙間を埋めるために、18世紀や1994年の時代設定が効果を発揮しているのではないか。
— 青柳美帆子 (@ao8l22) 2020年12月9日
「燃ゆる女の肖像」を見ると、18世紀のフランスの女性たちの不自由さ、不自由の中のひそやかな連帯、女が「見られている」こと、男の存在のある種の希薄さ、女性と女性の障壁のある恋愛を感じ、「(18世紀のフランスとまでは言わないが)いまもなおそれは存在している」と言いたくなりますが、
— 青柳美帆子 (@ao8l22) 2020年12月9日
逆に言えば現代を舞台にしたフィクションを描いてもいまここの現代のことは描ききれず、過去を描くことで描けるものがあるなと感じています。
— 青柳美帆子 (@ao8l22) 2020年12月9日
例えば2020年を舞台にした男性同士の恋愛フィクションで「ホモは無理」みたいな台詞を描くと、「2020年にそういうことを言っちゃいそうなキャラ」描写になってしまい、キャラの魅力を損なう可能性があるのだが、現実はまだ何も考えずにそういうことを言う人もいるよね、ということを思います
— 青柳美帆子 (@ao8l22) 2020年12月9日
2020年のフィクションで「やっぱ女の子の幸せはお嫁さんになることだよ」という台詞を言うキャラはネガティブなキャラ付けだけど、たとえば昭和舞台だったら「そのキャラなりの実感を抱いており、相手を真剣に心配している」みたいに捉える余地がある、そして現実は普通にそういうことを言う人もいる
— 青柳美帆子 (@ao8l22) 2020年12月9日
近い時期にBL漫画「潮騒のふたり」という、1994年を舞台にした男性教員同士の恋愛を描いた作品(これも超いい!)を読んだのですが、自分の中で呼応するものがありました。
おそらく「燃ゆる女の肖像」を見た人の多くは「さまざまな壁によって引き裂かれた女性たちの抑圧と運命」に心を動かされ、「18世紀のフランスの女性たちとはいえないまでも、まだ女性や女性同士の恋愛には困難がある」という思いを抱くのではないかと思います。一方で、現代社会では女性同士で添い遂げているカップルの存在がかつてよりも可視化され、「女同士だからふたりは結ばれませんでした」というストーリーは描きにくくなっているように思います(現実に、「女同士で結ばれている」人が増えてくれば、フィクションはそこを恋愛の成就の困難の理由にしづらくなってきます)。
これは体感なのですが、商業BLの作品も、ここ10年くらいで大きく変わってきており、「男同士なのに変だよ…」みたいなセリフはかなり減ってきているように思います。恋愛の自覚も「男なのにおかしいよ」みたいなものではなく、「俺、ゲイだったんだ」というようなセクシュアリティの自覚として書かれているものが増えてきているように感じるのです。
言葉単位で見ても、「ホモ」という言葉も、「窮鼠はチーズの夢を見る」の新装版で登場人物のセリフが「ホモ→ゲイ」に変わったように(現代で「ホモ」と非当事者が言うことは侮蔑的であり、それでも言うということは「無神経な人」「差別的な人」というキャラ描写になってしまう)、読者のキャラ認識に影響を与えるために、作り手や編集者が意識するようになっているような体感があります。
「同性同士だから結ばれない」という物語は、かつては「実のきょうだいだから結ばれない」に近い障壁として描かれていた時期もあったと思いますが、現代フィクションではそれだけでは成立せず、もうひとつなんらかのテーマが必要とされるようになってきています。
とはいえ。アウティングの痛ましい事件が起こったり、職場での差別、法制度での差別がまだまだ温存されていたり…。現実の同性愛が現実のヘテロ恋愛と同じものかというと、全然そんなことはないわけです。
フィクションには現実をある角度から表現する力があります。しかし(特にエンターテイメントは)読者の納得と満足に向き合うもので、とりわけBLや百合などのジャンル作品はその方向の知識が多い読者、当事者を含む読者(特に百合の場合)を想定しているため、一般社会の認識よりももう少し“進んだ”(この表現は適切ではないと思うのですが、ちょっと適切な言葉が見つからないのでこう記載します)世界、つまり未来を描いているところがあります。
そういう意味では、18世紀のフランスや、1994年の日本という過去を描くことで、現在を描くことができているのではないだろうかと思ったのでした。
なにはともあれ「燃ゆる女の肖像」は傑作。ラストシーンはじわっじわ涙が出てきます。