アオヤギさんたら読まずに食べた

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「アダルトメディア年鑑2024」に参加しました

12月中旬発売の「アダルトメディア年鑑2024」にライターとして参加しました。担当分野は主に女性向け二次元(TL、乙女、BLを含む、商業・同人の漫画・小説)です。あと座談会にも参加しています。

 

 

この本は主に三次元組の編著者として安田理央さん、二次元組の編著者として稀見理都さんが立っています。私は稀見さん率いる二次元チームみたいな感じでした。

この本がチャレンジしているのは、二次元・三次元・男性向け・女性向け・どちらにも分類できないもの・AI(技術)・規制など、さまざまな観点から横断的に「アダルトメディア」について語るというところです。

特にアダルトメディアとしての女性向けについて知らない読者のほうが多そうだなという肌感もあり、私の担当箇所は「2023年の動向」というよりかは、「2023年にいたるまでの流れ」みたいな部分が多いです。そのため、個別の作品についてよりも、プラットフォームについてや全体的なトレンドについてを中心に書いています。執筆においては多方面の有識者の方にご協力いただきました(あらためて感謝です!)。

また、女性向けの性質上、厳密な成人向け以外(成人マークがついていないもの)についても触れています。かといって「そのジャンル=アダルトメディアであるとは言えないし、実態も違う」と言えるように但し書きを何度かしており、女性向けアダルトメディアに関して初めて知る方はそのあたりのあわいを含めて読んでいただければと思っています。

 

今回は「年鑑2024(2023年までをまとめる)」という本でしたが、志的には「2025、2026…」と定点観測ができたらいいですね、という思いもあります。(そのあたりは売れ行き的な現実問題にもよるので、あくまでも志になりますが…)

有識者の方はいればいるほどよい……ということで、さまざまな二次元女性向けアダルトメディア(いわゆるR18の女性向け文化)について、現在地をなにかの形で記録しておきたい…という思いがある方、ぜひぜひご連絡いただけるとうれしいです。

 

なお、「アダルトメディア年鑑」企画には10人超執筆者がいるのですが、そのほとんどがTwitter(X)でシャドウバンを食らっており、Xでの告知力に弱いそうです。あとこの企画進行中にGoogleの検索アルゴリズムの大変更があったりで、「アダルトメディア年鑑」というタイトルも大丈夫なのかと心配になるところはありますね。

そういう意味でも、(特に外資系プラットフォームの影響力が大きいインターネット空間では)アダルトメディアの変化を記録していくのは難しくなっていき、紙メディアで残ることに価値があるのかもしれません(と、企画をアゲる私であった)。

 

…というかマジでみんなシャドウバンされてて告知文が見えない(検索で出てこない)可能性もあるのでいくつか貼っていきますね。

 

自分の課題と他人の課題

アドラー心理学には「課題の分離」という考え方がある。なにか人間関係の問題が発生した際に、その原因が自分にあるか(自分の課題)、他人にあるか(他人の課題)を切り分けて考えよという考え方である。他人の課題は自分でコントロールできない。他人の課題に悩んでいても自分ではどうしようもないのだ。

 

note.com

このnoteを読んで、本題でないところで感じたことはこれだった(本題は身分差の話をしている)。

非モテ、つまり「モテない人」のための文章なわけだが、「モテる」という言葉をインスタントにweblioで調べてみると「異性などから大いに好かれ、人気があること」と出る。「好かれたい」という願いは受身形の表現からもわかるように、他人の課題であり、自分にはコントロールができない。つまり、その人の悩みがどんなに切実なものだったとして、「モテないので、モテたい」という問題は(他人の課題であるがゆえに)解決が難しいのだ。

さっきのnoteでは、モテたいと思う人に「まずは風呂に入り服を新調しよう!(以下略)」と言い「口説け」と言わないことに対しての怒りが表明されているが、この怒りに私は筆者が感じているのとは違う意味で同感である。そもスタートが相手の課題に対して「風呂に入り服を新調しよう」はズレまくっている。風呂に入り服を新調するのは人間にとって悪いことではないと言えなくもないが、「モテたい(好かれたい)」という課題に対する解決に一切なっていない。

ここで厄介なのが何度も繰り返すが「モテたい」は他人の課題なので、妥当な解決策がないということ。この「モテたい」を違う方面の表現にして「〇〇さんに好かれたい」と言い換えたとして同じことである。究極的には「〇〇さんが自分を好きになるかどうか」は〇〇さんの課題であるわけなので、風呂に入ろうが入るまいが口説こうが口説くまいが答えは〇〇さんのコントロール下にある。もしかしたら風呂に入ったり口説いたほうが可能性は高まるかもしれないし、相手のことを知らないより知っているほうがより可能性は高まるかもしれないが、そんなのより相手がどういう状況にあるか(恋人がいるか、恋愛モードか、好みのタイプか)のほうが大きい。

 

この「課題の分離」の話をしたあとに、アドラー心理学では「自分がどうなりたいか」みたいな自分軸の話をし始めるのだが、この辺は私的には堂々巡りで、「いや、愛されたい人は愛される自分になりたいんだろ」「愛されたいというのは他人の課題で…」「キィーッ」みたいな感じになる。

今まだ読み途中の『恋愛結婚の終焉』は、結婚と恋愛を分離しようという提言の本で、めちゃくちゃ勉強になりながら読んでいるのだが、私の中で「どうしても恋愛して結婚したいという人の願いはこの提言では解決しないじゃん!!!」とささやく声がする(まだ読み終えてないのでこの先そういう話になるのかもしれない)。

 

解決不可能な悩み(=他人の課題)が自分の中心にある場合、その中から自分の課題にできるものを少しずつ切り分けていくことならできるかもしれない。「風呂に入る」はあまりにも迂遠すぎるが自分でコントロールができる。「口説く」は人とのコミュニケーションになり、つまり自分でコントロールできないので傷つく可能性は大いにあるが、恋愛というコミュニケーションを目指しているならいつかは通らねばならない道かもしれない……。

一方で「モテないこと(愛されないこと)」に対してずっと悩んでいる人は、自分でコントロールできないことにずっと悩んでいるわけで、いわゆる自己肯定感が損なわれていがちだ。そういうときは、ちょっとした相手からのダメージが非常に大きくなる(ところが人間関係はそういう不慮のダメージが発生する、なぜなら他人はコントロールできないから)。人間関係で被りうるダメージに耐えるためにも、自分でコントロールできることをひとつずつ積み重ねていって成功体験をいくつか積み、耐えられるだけの自己肯定感があったほうがいいのではという思いもある。

そうだな、さっきのエントリで「口説け」に対して「そうだそうだ!」と思えないのは、口説いた結果あるかもしれない傷つきにこの悩みを持っている人は耐えられるのだろうか(いや、耐えられないだろ)と思っているからなのかもしれない。

 

「風呂に入れ」「新しい服を買え」というのは一切本質的な問題解決ではないが、自分でコントロールできるという意味では悪くない。まあでも迂遠だよな(この話一生ぐるぐるまわるな)

あといまさらだけどさっきのnoteだと「モテたい(愛されたい)」がナチュラルに「セックスしたい」に言い換えられていることにようやく気づく。「愛されたい」の話は男女そんなにかわらないが、セックスに関してはあらがいがたく男女差があるよな〜(子どもができる可能性がある行為なわけだから。。。)だからより男性の場合自分でコントロールできない。解決が難しい悩みをずっと持ち続けているのはつらい。

 

(以下、連想で思い出した話)

欅坂46の「ガラスを割れ!」という曲の中に「傷つかなくちゃ本物じゃないよ」という歌詞がある。欅坂の活動の中でどんどん傷ついている真っ最中のメンバーに渡す曲として考えうる限り最悪の歌詞(お前はいま傷ついている、だから本物だ、耐えろ、というメッセージ)。そういった文脈からも「傷つかなくちゃ本物じゃないよ、じゃあないんだよ」と言いたくなるが、でも目の前のガラス、想像のガラスを割らなきゃいけないときもある。私は人の傷つきが見たくないので恐れてしまうが、傷つかなくちゃ本物じゃないよな瞬間もあるのかもしれない……。

欅坂46 ガラスを割れ! 歌詞 - 歌ネット

「キリエのうた」 岩井俊二の描く震災、思い浮かべた「すずめの戸締まり」「ONE PIECE FILM RED」

「キリエのうた」10月13日公開。岩井俊二監督の最新作。歌でしか自分の思いを伝えることができない少女・キリエと、彼女の周りの人々を描いた物語。主演は元BiSHのアイナ・ジ・エンドで、作中の歌唱はもちろん作詞も担当している。他出演者に広瀬すず、松村北斗、黒木華。

 

(ちょっぴりネタバレを含みます)

 



前評判を全く見ずに映画館に行ったので、途中で「ああ、真正面から震災のお話なんだ……」と驚いた。ちなみにチケット購入時にも地震描写に関する注意書きがあったので、震災にトラウマのある人は避けられるようにはなっているかと思う。評判をできるだけ見ないようにして行った初日「すずめの戸締まり」に近い感覚。どちらも物語の真ん中で、主人公が震災によって大事な人を失っていることが判明する。

岩井俊二作品らしく、時系列はわかりにくいところから始まる。

「Love Letter」を思い出すような雪原で、誰かが歩いている(観客はそれが誰か、いつなのかはわからない)。

そのまま舞台は大阪の小学校へ移る。小学生男子たちの噂話。喋れない知らない女の子が現れ、みんなはその子を「イワン(言わん)」と呼ぶ。教員(黒木華)はその少女のことを気にかける。

そしてさらに新宿の路上に移っていく。路上で歌う少女(アイナ・ジ・エンド)と、派手な髪をした女(広瀬すず)が出会う。少女はキリエと名乗り、うまく会話ができないことを明かす。派手髪の女・逸子は彼女を家に招き、「あなたのマネージャーになってあげる」と言う――。

こうして連続するシーンが、いったいどうつながっているのか最初はわからない。(もちろん、「喋らない」という共通点からイワン=キリエなのでは?と予想をしながら見るわけだが、確信はない)前半はパズルのような構成になっていて、いざ言語化しようとするとかなり危ういバランスであると感じるのだが、見ている間は魔法にかけられたように見入ってしまう。

 

バランスを成立させているのはアイナ・ジ・エンドの歌によるところが大きい。シンガー・キリエ(本当の名は路花という)の歌の、「歌でなら感情を伝えることができる」という爆発力と説得力。彼女の歌に周囲の人物が惹かれていくということが、余計な演出なしで理解できる。そういう意味では「ONE PIECE FILM RED」のウタに近い。

岩井監督はこの作品を「音楽映画」と称している。アイナ・ジ・エンドのすごい声(すごい声としか言いようがない…)がかかるたびに、登場人物の心が動き、感情の説明になり、登場人物の関係性が深まり、未来が暗示される。そういう意味でも「ONE PIECE FILM RED」。キリエがシンガーソングライターという設定なので、歌うことが自然なのもいい工夫(ここでもやはりウタがミュージシャンかつ歌を使った能力者という設定になっているので本編でいくらでも歌わせられるということを思い出した)。

 

本作は、ひとりずつ登場人物の過去の話が明かされていく。

逸子は、実は学生時代に路花と友達だった。本当の名前は真緒里。母子家庭で、三代続くスナックの一人娘、自分の人生は閉じていると思っていたが、大学への進学という希望を抱く(この希望は、現代の逸子のありようから儚く終わることがわかっているが、過去のパートではその不吉な気配を出さない)。家庭教師でやってきた男・夏彦(松村北斗)から「妹と仲良くしてほしい」と頼まれる。その妹が路花だった。

夏彦は隠しているものがある。その秘密、抱えている罪、できなかったことは、すべて東日本大震災とキリエ(路花)につながっている。夏彦の秘密を視聴者が知るとき、同時にキリエ(路花)の過去も知ることになる。

このように、明らかになるのはキリエのエピソードではなく、キリエの周りの人物のエピソードばかり。文章にしていくと書きながらあらためて驚いてしまうくらいだが、それでもやはり「これはキリエの物語なんだ」という印象がズレずにすむのは、やっぱり歌の強さのおかげなんだと思う。

 

2022年に公開された「すずめの戸締まり」は、物語の真ん中で主人公・鈴芽が震災孤児であることが明らかにされる(ちなみに前半、それを物語上は伏せているため、鈴芽の行動原理や心情がつかみにくいという避けられない欠陥が「すずめの戸締まり」にはある)。震災を隕石落下に読み替えた「君の名は。」を作り、さらに「世界が変わってしまった」気分を気候変動によって再演した「天気の子」を作った新海誠監督が、ついに震災を正面から描いた…というのは非常に大きな驚きがあった。そしてほぼ同時期に岩井監督が震災を真正面から描いた「キリエのうた」を制作・公開したというのは、やはりそれだけの時間がかかるよなというか、約10年という月日がクリエイターにとってひとつの節目なのだなと思う気持ちがある(これを早いととる人ももちろんいると思う)。

 

新海監督は震災を東京で経験している。そのときの気持ちをさまざまなインタビューで語っている。

〈震災のとき、自分は被害の当事者ではなかった。アニメを作っているいち制作者なんだというのが、なぜかとても後ろめたく感じました〉(映画「すずめの戸締まり」 新海誠監督が東日本大震災を描いたわけは|NHK

〈誰もがいろんなことを感じたと思うのですが、僕の場合、今でも続いているのは強い“後ろめたさ”のような感情なんです。たぶん、あの時みんな感じたんじゃないかと思うんですが、自分が被災者でなかったことの後ろめたさ。あるいは被害にあったのが自分の住んでいる場所ではなかったことにほっとしてしまうような後ろめたさ。「自分があそこにいてもおかしくなかった」「私があなただとしてもおかしくなかった」といったような紙一重な状況で、それなのに自分はエンタメ映画をつくっているという後ろめたさ。〉(新海誠監督、「すずめの戸締まり」で挑んだ“エンタメと震災”。未公開インタビュー - クローズアップ現代 - NHK

岩井監督は仙台出身。震災のときはアメリカ・ロサンゼルスで、故郷の近くの状況を伝える報道を見ていた。

〈震災の時、僕はロスにいて、たまたまスタッフと電話していたら、「大きな地震が来た」と電話越しに言われて、すぐテレビをつけて。向こうでNHKをやっているんですけど、すぐヘリコプターからの映像になって、程なくして津波が押し寄せてくる映像を見た記憶があるんですけど。そこに若林というテロップが出ていて。僕はまだ幼稚園に入る前でしたけど、そこのエリアに住んでいたことがあって。そこの町に津波が押し寄せていくのを見た衝撃が大きかったと思います。
地震よりもはるかに津波の被害がいまだに尾を引いていて。いずれ、何らかの形で表現しなきゃいけないかもしれない大きな課題のひとつとして、自分のふるさとを襲った津波というのが残っている気がします。〉(A sense of Rita vol.9 岩井 俊二 さん | ap bank

〈テレビを眺めていると津波の映像も流れ始め、遠く離れて時差もあるアメリカにいながら、まるで日本にいるかのような感覚で過ごしていました。

家族に連絡がつかなくなり、消息がわかる2、3日後まではとにかく心配でした。宮城に親戚が多く、ある人はふと外に目をやると目線の高さまで浸水していて、あわてて逃げて何とか助かったという話も聞きました。塩竃(しおがま)に住む親戚はビルのずいぶん高いところに避難したそうです。ビルから下に見えるショッピングモールに津波が押し寄せる様子を撮影した動画を見せてもらったのですが、その動画を見て大きな衝撃を受けました。〉(「年に一度、思いを馳せる」映画監督・岩井俊二さんに聞く3.11との向き合い方 - ITをもっと身近に。ソフトバンクニュース

東京から、アメリカから、ただ報道を見るしかない焦燥感。とんでもないことが起こって、たくさんの人が傷ついているのに、なにもできない無力感。「すずめの戸締まり」では震災の際に被災者以外(つまり、新海監督)が感じていた葛藤をフィルム内にあえて出していないが、「キリエのうた」ではまさにその思いを体現するキャラクターがいる。松村北斗演じる夏彦である。

 

言うまでもないが、松村は「すずめの戸締まり」にも出演し「閉じ師」の青年・草太役を演じている。ちなみにもともと「キリエのうた」での出演のほうが先で、公開の順番が前後したようだ。

〈松村については、新海監督が「他社の映画ですけど来月、岩井俊二監督の東映の映画で『キリエのうた』というのがあって。僕、岩井さんが『キリエのうた』を撮っている時に、現場で『北斗くんっていう子がすごくいいんだよ』と聞いて、『じゃあオーディション呼んでください』って言って、そこでフラットにオーディションをやって『彼がいいな』と選んだ」と岩井監督を通じての出会いだったことを打ち明ける〉(新海誠監督、『すずめの戸締まり』“おかえり上映”で松村北斗起用の裏話を明かす「岩井俊二さんが『キリエのうた』を撮っている時に…』|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS

夏彦の弱さ、繊細さ、無力さは素晴らしかった。いろんな番宣やインタビューを見ると、どうも松村は自信をもてないままクランクアップしたようなのだが、その自信のなさが夏彦らしさになっている。「キリエのうた」が松村の代表作のひとつになるのは間違いない。弱いところを出す、揺らぐ男を演じさせたらピカイチすぎる。

 

そうした過去を超えて、いま新宿で歌うキリエはどうなるのか。もちろん岩井俊二作品なので、楽しいサクセスストーリーでは終わってくれない。キリエは大切なものを失って、得て、ふたたび失う。それでも歌は残る。

物語の最後で起こる出来事については、私はとても悲しくて、そうでない終わりであってもよかったのではと心から思う。映画「お嬢さん」のように、物語の外に出ていってしまってもよかったのではないか? ただ、岩井俊二作品であることを考えれば、こう終わるのは必然でもある…のかもしれない。その悲しさが大きすぎるし、過去作の自己模倣ではとうがってしまうところもあるので「大好きな映画」とはとてもいえないが、「見るべき映画」であるとは断言できる。