アオヤギさんたら読まずに食べた

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歯医者の予約忘れへの傾向と対策

昔から「日付・時刻」に非常に弱く、過去何回か自分でも「なんでこうなってしまうんだ…」と思うようなミスをやらかしています。

人に言えるレベルのミスで言うと、大学生のときの「手伝いで同行することになった林間学校の出発日を一日完全に間違え、出発日に友人から電話がかかってきた」というのがあります。以降、その友人は飲み会などのリマインドの際に「1日間違えるなよ」というありがたいアドバイスをくれます。

人に言えないレベルのミスはもうちょっとあるのですが、本当に言えないレベルなのでインターネットには書けません。

大学のときは「極力約束はしない(行けたら行くで乗り切る、その日のノリで決まるものに同行する)」というので他人への迷惑を減らそうとしていたのですが、社会人になってからはそういうわけにもいかず、「会社のスケジューラに全ての予定を登録し、毎日念じる」という方法で綱渡りしています(それでも年に2回くらい「予定が○日なのはわかっていたが今日が○日なのは知らなかった!!!」ということが発生します。年々減ってきてはいる気がする)。

さてタイトルの本題なのですが、病院の予約も頭からスッカリ抜けることがあります(医療従事者の方、本当にすみません……)。

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「3日後に来てね」とかだと忘れにくいのですが、15日後の予約などはかなり危ないです。これまで会社の予定を入れたスケジューラに登録しており、会社の予定を確認するために毎日スケジューラを見る+5分前になるとスマホアプリで通知をしてくれるというダブルの構えにより、歯医者に通うことができていました(それでも寝坊などが発生することはあるのですが、「起きているけど忘れる」ということはなかった)。

しかし最近、定期的に歯医者に通っているのですが、在宅勤務になってからの約2カ月の間で2回歯医者の予約を忘れています。しかも「その時間ちゃんと起きてたのに忘れてた」というやつ……。

なんでこんなに急激に忘れることが増えたのかなと考えてみたのですが、在宅勤務になり会社の定例会議などがなくなった&大幅に減った→定期的にスケジューラを見ることがなくなり、まず第一に「スケジューラで予定を確認する」回数が減ったことがひとつ。

そして在宅勤務なので、スマホが近くにあると無限にスマホ見ちゃう→スマホを遠くに吹っ飛ばしておこう!!!みたいなのが発動し、スマホからのリマインドを受け取れないことがあることの影響も大きそうです。

まず大前提として予約すっぽかしはメチャクチャ迷惑であるし、私も歯医者に通いたいので、短期的に対策を取りたい…と思い、GoogleHomeにリマインドしてもらうことにしました。

家に帰ってきたらGoogleHomeで、「次の歯医者の予定時刻10分前」の時刻にアラームをかけてもらうようセットします。歯医者までは徒歩1分くらいなので、10分前にアラームがかかれば歯磨き&着替え&出発までできるという構え。

この運用でも忘れるようであれば、再度対策を考えます……。いまのところはこうしてみるという自分用覚書もかねて。

食洗機が家に来て変わったこと

我が家に食洗機がきました。すべての有識者たちが「食洗機は大体の家庭において絶対買った方がいい」と言っていましたがマジでそうだった。

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●買った食洗機→パナソニックのプチ食洗(TCR4)

 

●一緒に買ったもの→分岐水栓、工具系、川口工器の食洗機台

現在我が家は二人暮らしで、ほぼ自炊はしません。ただ朝夜にコーヒーを飲んだりお茶を飲んだりはする。時々朝ごはんでパンを焼いたりする。料理は月に数回。月に1~2回くらい人が家に遊びに来ます。

……という状況なので、正直いうと、食洗機の恩恵というのはそんなに多くないんじゃないかなと思っていました。いわゆる「手で洗う方が早い」という範疇。電源がややとりづらいところにあるのもあって、「食洗機、そこまでいらないんじゃないかな……」とやや及び腰でした。

ただ今の家に引っ越してからだいたい1年くらいになるんですが、1年の間で6カ月くらい「食洗機欲しいな、いやいらないかも、いや欲しいな…」を繰り返しており、「それだけ悩んでるんだったらもう買ったほうがいいのでは?」というのを同居している恋人から提案され、クリスマスプレゼントに買ってもらいました(※最近は誕生日やクリスマスなどのめでたい日のプレゼントは家の中で必要そうなものを買いあうという方式でやっています)。

そして食洗機が家にやってきてから約2カ月、マ~~~~ジでご機嫌な日々を送っています。

 

●食洗機の(私的)本質

もともと私は皿洗いがすごく苦手で、過去何回も皿洗いを克服するべくさまざまな手段を試していました。

ao8l22.hatenablog.com

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上記のエントリでもさんざん「食洗機買え」と言われてましたが、実は実家には食洗機があって、それでも皿洗いが苦手だったんですよね。

なんでそんなことが起こっていたかというと、今思うと「食洗機がデカかったから」だと思います。

実家の食洗機はビルトインタイプで、4人家族用の大きさでした。このサイズだと、「朝ごはんと夕ごはんを家族3人で食べてその夜に洗う」みたいな運用はすごくしやすいんですが、この運用にした時点で「皿を溜める」というのが発生し、溜めた皿がケガレになるために触りたくないという感じになっているわけです(だいぶ適当に書いてます)。

皿洗いが苦手な人間として言いたいことは、苦手なのは「皿が溜まっている」という状況であり、そのステータスが一定期間続くことで「もうどうにでもな~れ」と洗うことを放棄したくなります。また変なところで貧乏性なので、「皿が5点しかないのに食洗機をまわすのはもったいないのかも?」と思いまわせなくなります。そういうふうに皿の溜まり状況とにらみあいを(勝手に)している間に、「皿洗ってよ!」と同居している家族からの怒られが発生し、皿洗いに対する負のフィードバックが発生します。

よかったのは、購入したのが「プチ食洗」ということ。それは家の広さとお値段的に考えての選択だったのですが、今思うとマジでプチのほうを買ってよかったです。

一応カタログスペック的には20点近くの食器が入るとされていますが、わりとすぐいっぱいになります。例えば夜にだらっと飲んだコーヒーカップとコーヒーの道具もろもろを入れるといっぱいになるんですね。いっぱいになったら罪悪感なくスイッチをオンにできます。(あとカタログ的には手洗いよりも水が3分の1程度節約されるとあるので、そういう意味でも罪悪感なくスイッチをオンにできます)

つまり皿を洗える人がよく言う「使ったらすぐ洗えば溜まらないのでは?」という状態が、労することなく達成できるのです。

 

最近は、

・朝にコーヒー飲む→飲み終わったらそのまま食洗機に入れてスイッチオンして出社

・夜にお茶とかたまに自炊する→終わったらそのまま食洗機に入れてスイッチオンして寝る(寝室とキッチンはそんなに近くないので音は気にならない)

という感じで過ごしています。シンクの中に食器がほとんどたまらないので、精神的ストレスがとても少ないです。

 

そして面白いのが、食器が簡単に洗えるとなると、自炊へのハードルがぐっと下がってきたということです。これまで自炊に対して気が進んでいなかったのは、その先にある「皿を洗う」という工程に対して拒否感があったのかもしれません。これまで本当に月1~2くらいでしたが、月4~6くらいに増えてきました(それでも一般的には少ないが)。

※でかい鍋などの大物は手洗いしています。ただ一人用の自炊だと食洗機に入るサイズの鍋やフライパンで済ましてしまうことが多し

 

食洗機を使っていて本当にうれしいのが、「自分がこれをやらなくていい」ということです。実際は皿をつめているのも終わったあとに回収しているのも自分なのですが、「洗う」という、時間にしたらたった5~10分の作業を、誰かに代わってもらっているような感覚になります。

家の中で各メンバーがいい感じに家事を分業できればそれは一番いいわけですが、実際はリソースやスキルの問題でなかなかできないということもあります(うちはそうです)。そうした場合、「自動でなんかやってくれる家電」という新しいパートナーを招き入れるというのがいい感じの折衷案で、だからよく「新三種の神器」としてドラム式洗濯乾燥機、ルンバ、食洗機が挙げられるのだなと実感しました(いずれも自動の家電で、なんらかの工程を「自分でやる」ことからスキップできるものですよね)。

また食洗機は使うのがとても簡単なので、「皿洗いが誰の仕事でもなくなる」というのがでかいポイントだと思います。普段生活しているとなんとなく「この家事はこの人の領分」というのが決まってきて、その人が仕事や私生活でつぶれるとそこが完全に詰まるんだけど、他の人が担当できなくて生活が荒れる…というのはあるあるなので、「ちょっとだけ頑張れば他の人が代われる」という状態ってすごくありがたいし心の余裕ができるな~~と思っています。

一人暮らしでキッチンが極狭の人(物理的に置くのが難しい。また狭いキッチンだとそもそも自炊を完全に捨ててる家も多い気がする)や、皿洗いで気持ちをリフレッシュできる人、物理的に動線などの相性が悪くて食洗機が置けない人などは導入しにくいのですが、そうでなければ飲み会を8~10回断って飲み会行ったつもり貯金(機能がやや制限されたタイプなら4.5万円くらいから導入可能)をして導入するとすごく生活がご機嫌になると思います。

 

 

“女性同士の連帯”の希望と幻想 『三つ編み』とトランス差別批判と

フィクションでもインターネットの世界でも、「女性同士の連帯」「女の友情」「シスターフッド」という言葉をよく見るようになった。これまで男性優位社会の中で描かれてきた「女の敵は女」「女は怖い」といった表現のカウンターだ。

こないだ読んだ『三つ編み』は、インドのダリット(不可触民)の女、イタリアの毛髪加工会社の娘、カナダのキャリアウーマンの弁護士――という生まれも育ちも全く違う、出会うことのない3人の女の人生が、「髪」(タイトルの「Tresse(三つ編み)」は女性名詞である)という一点でつながりあうという構成になっている。

 

 

三つ編み

三つ編み

 

 

フランスで100万部突破、日本では2019年4月に早川書房から刊行されて11月時点で6刷1万3500部(婦人公論の記事より)。フランスと比べると少ない数字ではあるが、一時期出版業界の人からよく聞いた「フェミニズム本は重版がかからない」という話からすると(最近は潮目が変わってきている気もする)変な言い方だが健闘している気がする。

『三つ編み』の解説をしているのはライターの高崎順子さん。本書が支持されたポイントを以下のように指摘していて、とても納得した。

〈主人公三人が、まったく異なる「属性」を備えていること。そしてコロンバニがそれぞれを彩り豊かに、優劣なく描いていることだ。

 スミタ(※インドの女)は「母」であり「妻」であり「信者」であり「旅人」である。ジュリア(※イタリアの女)は「二十代」兼「恋人」兼「友人」兼「家族」兼「雇用主」で、サラ(※カナダの女)は「四十代」と「サラリーマン」と「保護者(スミタの“母”とは違う)」と「闘病者」と「自営業者」と「シングル」の属性を備えている。三人の共通点は「女」であることだが、それを除けば重なる点はほとんどない。ざっと挙げただけで、十種類以上の属性が三人に与えられている。その多面性・重層性は、現代女性のとてもリアルなあり方だ。読者は必ずなにかしら、共感を寄せるフックを見つけることができるだろう。〉

 登場人物の三人は、「女」であること以外はほぼ共通しない人生を歩んでおり、彼女たち自身は物語の上でも出会うことがない。ただ、意識することなく、彼女たちは「髪」で交錯する。『三つ編み』の名の通り、本書はスミタ→ジュリア→サラ→スミタ→ジュリア……と三人の物語が順番につづられていくのだが、読者は彼女たちの生き方を追いかけつつ、それぞれのシーンで共感や「彼女たちが幸せになってほしい」という祈りを抱く。

(※個人的には、ラストシーンは実はスミタ/ジュリア&サラに差があるように思えている。ジュリアとサラは「髪」そのものによって救われるのだが、スミタは宗教的に定められて「髪」を捧げ、宗教的な救いを感じている。この書き方にちょっとひっかかりはあるのだが、それは読者である自分が宗教的救いに共感するところが薄いからであって、宗教的規範が強い人にとってはまた強い共感ポイントになるのかもしれない)

高崎さんの解説には非常に納得がいったが、一方でムムッと思うこともあった。これだけ多くの多様な属性がある中で、全く出会うこともない人間たちを、「女」の一言で束ねていいのだろうか。理想を言えばそれで束ねるべきではない。その束ね方に違和感がないこと自体が、現代社会の重力を表しているのだと思う。

 

自分の中で問題意識がつながっているのが、ぽてとふらいさんによるエントリ「にくをはぐ」批判批判から連なる「『まだまだ物語が必要』とはどういうことか?」だ。

note.com

このエントリでは、少年ジャンプ+に掲載されたトランス男性を扱った読み切り「にくをはぐ」を中心に、ネット上で寄せられた「主人公が既存のジェンダー規範を内面化している」ことへの批判を批判している(このまとめ文だと意味わからんちんだと思うので元エントリ読んでください)。

このエントリは後半、シス女性(の中でも特にフェミニズムを意識しているシス女性)の、トランス差別意識への批判も行っている。

 

〈動画内でも分散的に触れられているのですが「反トランスな"フェミニズム"」(この人達は自身を"ジェンダー・クリティカル・フェミニズム"と名乗ることがあります)の人が、トランス女性を否定する際によく使う論法の中に「共通の抑圧を経験していない」というものがあります。

つまり、男性として生まれた"トランス女性"は、女性として生まれた"女性"と同じ経験をしていない。だからトランス女性は女性では無い、というような論法です。
ここにはさらに、男性としての特権を受けてきた、とか、そういった形の尾ひれがくっつくのが、常です。〉

『三つ編み』に戻ると、帯には「この怒りと祈りが私たちをつなぐ」とある。高崎さんの解説にもあるように、三人の女性の怒りと祈りは、多様な属性の上に成り立っており、さらに読者である“私”は宗教観も全く異なるわけですが、「女」という属性で“私たち”としてつながれてしまう。

それはある意味では希望ですが、裏返しとして“本当につながれているのか?”という疑問が浮かんでくる。ここでつながっている“私たち”とはだれなのか? また、例えばトランス女性であり、違う“怒りと祈り”をたどってきた女性は、“私たち”としてつながることはできないのか?

という風に考えていくと、自分の中では、以下のような考え方が出てくる。上野千鶴子さんが指摘しているように現代日本には「ミソジニーという重力」が存在しており、重力というのは等しく我々にかかっているものなので、「共通の抑圧」はシス女性/男性でもトランス女性/男性でももっているものだと。……しかしここまで射程を広げてしまうと、むしろ何も言ってないのと同じというか、世界はひとつ! 的な世界観になるわけで、強い共感、強い感情移入からは遠ざかるように思う。

 

短歌ムック『ねむらない樹』4号の特集は「短歌とジェンダー」で、一人称文学としての短歌で描かれる世界の「共感」とジェンダー的賞味期限の指摘などが非常に面白い(例えば俵万智の〈「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの〉に対し「こういう時代があったという証言としての価値は残るが、久女や澄雄の句と同様に、この歌で心揺さぶられる感覚を多くの人が持つ時代は、過ぎ去ったのではないか」と指摘するなど)。

 

短歌ムック ねむらない樹 vol.4

短歌ムック ねむらない樹 vol.4

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 書肆侃侃房
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

中には川野芽生さん、黒瀬珂瀾さん、佐藤弓生さん、山階基さんの座談会があり、川野さんの指摘が直接関係はないのだが自分の中の気持ちと少しリンクした。

ステレオタイプを利用すれば、これを言えばこれだけのことをが伝わるという量がマジョリティ寄りの人であればあるほどたくさん利用できるということです。マイノリティ寄りの人であればあるほど伝わらないことが増えていくので、言葉を尽くさないといけなくなってくるという。〉

「女性は世界最大のマイノリティ」という言葉は一般的だが、それは事実である一方で、数の上ではやはりマジョリティでもある。「女」という属性の中には避けられないステレオタイプがあり、多種多様な人々を描く際に、その属性一点で“つなげる”ことができてしまうほどの情報量がある。それはとても読者としても書き手としても強い誘惑なので、抗うのは難しいし、抗っていると意図された読みとは遠ざかっていくわけだが、しかし抗う意識をどこかにもっておかないといけないよねという……

 

ということをぐるぐる考えている日曜日だった。