アオヤギさんたら読まずに食べた

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「特別な不倫」というものはひとつも存在しないの

これはフィクションなんだけど、私には4歳上の友人がいる。彼女とは私が小学校6年生の時からの知り合いで、インターネットのオフ会で出会った。彼女は26歳、今の私と同じ年に結婚した。彼女から「会おうよ」とDMで連絡が来たのは実に2年ぶりで、私はホイホイと渋谷のサイゼリヤに向かった。

サイゼリヤで彼女はいつも最初にランブルスコを注文する。お互いのグラスに注ぎ、乾杯をし、唇を潤して、それからすぐに彼女は本題を話し出す。

「旦那がね、不倫をしたんだよね。しかも重めのやつ。火遊びじゃなくて、本気のやつ」

2年ぶりに会ったにしてはいささかヘビーな出だしではあった。旦那。私は思い出す。彼女の配偶者はいったいどんな人だったっけ。なんだかすごく、ふつうな人だったような。

私の表情を読んだかのように、彼女は頷く。

「うん、ふつうの人だよ。ふつうに優しくて、ふつうに働いていて、ふつうに私のことを大切にしてくれていた。そして、ふつうに浮気をして、ふつうに燃え上がってしまって、ふつうに私にバレちゃった」「どうしてバレたの?」「LINEの通知が、メッセージ非表示になるように変わってて。今までそんなことなかったのに」「わー」「携帯のパスワードも変わってて」「うわー」「寝てる間に彼の親指当てて解除したら、まあすごいメッセージばかりだったね」「わあ……」

きっかけはというとこれまたよくある話で、高校の同窓会で、ごく短いあいだ付き合っていた女性と再会したのだという。お互い既婚者で、家庭のささやかな愚痴から始まり、過去の思い出話、そして。

「どう思う?」

彼女が尋ねてくる。私は言葉を選ぼうとして、結局うまく選べなかった。

「すごく、ふつうだと思う」

「でしょ? 私もびっくりした。1から10までテンプレでしょ? こんなの小説に書いたら先が読めすぎるって読者から怒られちゃうよ」

でもね。

「恐ろしいことに、旦那はこれが『ふつう』だとは少しも思っていないの。なにか特別なことが自分たちに起こっていると思っている。特別な自分たちに、特別なストーリーが降りかかっていると思っているんだよ。旦那は『物語の主人公』で、あの人は『ヒロイン』で、そして私は……なんだろうね」

はためから見れば類型化されたお決まりの陳腐なラブストーリー。

でも彼らにとっては、特別に彩られた物語。

「そりゃあ気持ちいいよね。そりゃハマっていくわけだよ。脳内物質がドバドバ出て、どんどんエモーショナルな気持ちに飲み込まれていく。会えなくてさびしいねってLINEで打つたび、頭の中には感動的なBGMが流れてる。実写化したら、男は高橋一生で、女は黒木華になるんじゃないの? 一方でさ、家庭にはエモも物語もないの。星野源じゃないけど暮らしがあるだけで、なんなら流れている映像は『サザエさん』だよ。もう作画どころか放送時間帯が違うの」

それって、ひどい話じゃない?

彼女はそう言う。

「……どうするの? 問い詰めるの?」

「そんなことしたら、さらに悲劇のストーリーに巻き込まれるだけ。私はあの人たちに利用されたくないの。私は私の物語の主人公であって、あの人たちのお話の登場人物にさせられるのには我慢ができない。だからね、絶対に言わない。ばれてるよ、知ってるよ、あなたたちはつまらないことをしているよって言わないことに決めた」

「でもそれはそれで悔しくない?」

「悔しくないよ」

彼女は笑う。

「私もね、陳腐なお話の主人公になることにしたの。すごく普通で、すごく普通の物語。……思った通り、すごく気持ちよかった」

「卒業おめでとう」と僕もいつか言うようになる

これはフィクションなんだけど、大学時代の友人にT君という男の子がいた。T君は中高一貫の男子校に通っていて、あまり女慣れをしていなくて、しゃべるのはそう得意ではなかったけれど、よく本を読んでいて、頭のいい人だった。大学1年生のときは語学のクラスが同じでたびたび話していたし、1回や2回は少人数でお茶をしたことがあったけれど、大学2年生のとき、クラスメイトの(すこし精神が不安定な)女性と付き合いだし、彼女の独占欲によって私は“切られた”のだった。

私の周りの先輩や友人は社会からの逃避を望み、留年したり大学院進学を選んでいたりしたが、彼は堅実に4年で卒業した。就活は苦戦しつつも、最終的には大手と呼ばれる出版社に入ったと聞いた。

 

そんな彼と、大学を卒業してから数年ぶりに再会した。ふとしたきっかけで連絡を取ることになり、社交辞令を応酬するうち、その社交辞令を「これは社交辞令ではない」とごまかすためのように、あれよあれよと2人で会う予定が決まった。恵比寿のきれいなタイ料理屋で久しぶりに会った彼は少し太っていて、少し肌が荒れていて、少し疲れた顔をしていた。

彼とのコミュニケーションはやりやすかった。お互い、既にインストールされているテンプレートで話していけばいい。最近面白いと思ったこと、インターネットの炎上案件、昔のクラスメイトの変な話、会社の悪習。時折「それは最悪だ」「わかる」「引いた」を言ったり言わなかったり、そして2時間が過ぎれば、「楽しい飲み会」はお開きだ。

「そういえば、大学の時に付き合っていた彼女はどうしたの?」「社会人1年目で別れたよ。『私と仕事どっちが大事なの!?』と泣かれて」「そんなことを本当に言う人がいるのか」「彼女の要求を満たすためには仕事を辞めなきゃいけない、だってどうやっても気持ちじゃ帰れないんだから」「じゃあ振ったの?」「振られた」「えっ」「他のもっと暇な男のところに行った」「かわいそうに」「でも今でもしょっちゅう『さびしい』ってLINEが来る」「かわいそうに」「どっちが?」

こんな話ですら、テンプレートの応酬で喋ることができる。20代も半ばになると、面倒な恋愛はすべて類型化されていて、語り手も聞き手もキャッチボールがうまくなりすぎるきらいがある。

 

ふと、T君は言葉を止めた。初めてのぎこちない沈黙だった。

「……あのさ」「なに?」「変なこと……女の人に言うには微妙かもしれないことを言ってもいいかな」「どうぞ」

彼は話し出す。

「社会人1年目、上司や取引先に連れまわされて、いろんなお店に行ったよ。僕は童貞ではないんだけど、同期や先輩たちのあいだでは童貞扱いされていて、まあ実際彼らの経験人数から見るとほぼ童貞みたいなもので、さらにいえば正面から相手にするのも面倒なので放っておいた。で、その夜連れていかれたお店は、女性がもてなしてくれる、いわばそういうところだった。うちの会社には、風俗や高級クラブのリストが代々受け継がれていて、先輩が後輩を連れていくことが通例になっているんだ。僕はそのお店にいって、サービスを受けて、受け終わって、僕よりも先に入った先輩を待合室で待っていた。出てきた先輩は嬉しそうに笑って、僕の肩を親しげに叩いて、そして心から祝っているような声で言うんだ。卒業おめでとう」

「卒業おめでとう」

「卒業おめでとう。そのとき僕は、ものすごく吐きそうになった。さっき女性から受けたサービスが、あの手の持ち主が、一瞬先輩であるかのように見えた。僕はあの女性を介して、先輩から性的に触れられていたんだと思った。叩かれた肩がじわじわ不快で、でも、ちゃんと楽しそうに笑ってお礼を言えたと思う」

インストールされたテンプレート。こういうときにはこうするべきだといつのまにか刷り込まれた規範。

「そういうことばっかりある。そうしているあいだに、僕もだんだんわからなくなってくる。楽しそうにしているのか、本当に楽しいのか、ちっともわからなくなる。仕事だけじゃなくてプライベートもそう。彼女はいるよ、いるけど、彼女が好きだから付き合っているのか、彼女というものを作っておかないと職場の人とうまく付き合えないから付き合っているのか、時々わからなくなる。最近思うんだ。僕もあと数年したら、童貞みたいな顔をした僕に似ている男を、僕らが知っているいい店に連れていくのかもしれない。卒業おめでとう、と僕もいつか言うようになる。そうなっちゃったら、どうしたらいいんだろう」

そこまで言って彼は、私の反応を聞くことも見ることもなく、「ちょっとトイレ行ってくる」と立ち上がった。次に戻ってきたときの彼は、またなめらかにしゃべる彼に戻っていて、私たちは2時間半の飲み会をつつがなく終えた。

伊都くんと譜井門くんと矢風くん(SS)

ある日、うちの学園に転校生がやってきた。

「譜井門と言います。面白いことが好きです。よろしくお願いします」

簡潔な挨拶に完璧なほほえみ。教室内におざなりに鳴らされる拍手は、それでもある程度の好感を示していた。

聞くところによると、譜井門は帰国子女――というよりも、ほぼアメリカ人のようなものらしかった。アメリカで生まれ育った譜井門は英語に堪能で、それでいて日本語にも不自由なところは見当たらない。紆余曲折あってこんな島国に、こんな時季外れのタイミングでやってくることになった彼を、クラスは静かに仲間の一員として受け入れた。

譜井門は面白いやつだった。いつの間にそんな時間を作っているのだろうと不思議に思うくらい、よくテレビを見て、ラジオを聞いて、本を読んで、アイドルなんかにも詳しかった。クラスのサブカル連中、オタク連中と話を合わせることなど、譜井門には本当に簡単なことのようだった。

その一方で譜井門には、妙に生真面目なところと、押しの強いところがあった。隣のクラスの上留区は嘘つきで有名だったが、僕たちは彼を放っておいていた。だって彼の言うことなんて、誰も信じないと思っていたんだ。しかし譜井門は上留区がこれまで言ってきた嘘をすべてまとめあげ、彼を糾弾した。上留区はいつのまにか学園からいなくなっていた。

僕は譜井門のことがあまり好きではなかった。僕はわりと優等生で、ゲームやインターネットが好きなオタクで、時々おもしろいことを言う変な奴だと自分のことを思っていた。周囲からもそう見られていたと思っている。でも譜井門がやってきたことで、僕は自分の居場所がなくなったと感じていた。

わかっている。これは被害妄想だ。

しかし僕は被害妄想を止めることができない。

――ある日僕は、譜井門と、そして学級委員をつとめる矢風くんが屋上で話しているのを見かけてしまった。そんな必要なんてないはずなのに、僕はとっさに身を隠し、そっとふたりの様子をうかがった。

「譜井門はおもしろいな。ぼくはずっと、譜井門のようなやつと話してみたいと思っていた」

「……矢風はたまに、何もかもつまらなそうな顔をしているよな」

「うん。つまらないと思うことはある。ぼくの周りにいるやつらは、みんなばかばっかりだよ」

「そんなひどいこと言わなくていいんじゃないか? みんな矢風を慕っているんだろう?」

「譜井門だって、そう思っているんだろう?」

「え?」

「譜井門はさ、自分のことを頭がいいと思っているだろう。周りがみんなばかだって、そう思っているんだろう。だから、きみは他人と合わせられる。ばかなふりも、頭がいいふりもできる。そうだろ?」

「……」

「そうイヤな顔をするなよ。ぼくも同じだからさ」

――僕は、矢風と仲良くなりたかった。いつもにこにこ笑っていて、人当たりのいい矢風と。譜井門に話す矢風は、いつもと同じ笑顔のままで、これまで聞いたことのなかった声をしていた。