アオヤギさんたら読まずに食べた

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昭和二十八年に祖母が挙げた結婚式の話

年末に祖母が亡くなって、今日は納棺をしてきた。

葬儀のプランで、納棺の前に身を清めてもらえる。お風呂に入れて服(白い例のやつ)をきちんと着せてもらえるプランと、身体を拭いて服は上にかけるプランがあり、もちろん前者のプランのほうが高い。しかし母は「前者にしてください」と即答した。祖母はお風呂が好きだったから。

お風呂は、専用の台を使って、シャワーで洗い流すような感じであった(表現が難しい)。ふたりがかりで、ていねいに洗ってもらった。ボディソープを、シャンプーを使って、きれいになっていく祖母は、陳腐な言い方だけれど、死んでいるようにはとても思えなかった。シャワーから出るお湯は湯気が出ていて、洗ってくれている担当者さんの呼吸音が、祖母の呼吸のように聞こえた。

きれいに洗ってもらって、タオルでしっかり拭かれて、白い服を着させられてベッドに横たわる祖母は、今度は化粧をしてもらう。人工呼吸器で傷ついてしまった鼻を、パテのようなものだろうか、埋めてくれて、ファンデーションとチークが塗られた。淡く口紅が塗られた。化粧をした祖母の顔を見るのは、もう何十年ぶりだろうか。

 

いつもうっかり忘れてしまうことなのだが、祖母にも毎日化粧していた日々が、華やかに暮らしていた日々があった。以前のエントリにも引用した、祖母の日記(随筆?)に、彼女の結婚のエピソードがある。

 

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六月八日

 今日は私の結婚式のことを書いてみようと思う。

 なにしろ私の父が彼のことを気に入らず大反対なのである。金持ちの素敵な男を連れてくるかと、私の結婚にはおおいに期待していたのに、まだ学生でぽんだいときているのだからすごいいきおいで反対された。彼の周りの連中が此の二人を結婚させるんだと着々と準備し始めた。二人とも一文無しときているのに、お祝いを先に集めてしまって、それで私鉄沿線に二階建ての家の二階の四畳半の部屋を借りてきてくれて、それが新居なのである。当時はそれが当たり前だったのである。式をあげるなんて、とんでもなかったのである。

 

六月十二日

 今思い出してもあまりいい思い出でもないので、素通りしてしまおうかと思ったが、まあ人生の一つの筋目なので、記しておこうと思う。誰が企画したのか大変な結婚式だった。

 昭和二十八年十月二十八日

 後楽園で行った。会費制とかで、百人近く集まった。彼の方が俄然多くて。司会も彼の友達がやった。花嫁がただ座っているのも能がないというので、私の友達が白いベールとパールのネックレスとイヤリングを貸してくれたので、それをつけて、新郎新婦よろしく中央に座った。

 

六月十五日

 式は式というようなものでなく、なにかの会というようなものだったが、世話人も始めてのことで、試行錯誤で会を進行していった。彼の方はだれもこなかったが、私の方はあんなに怒っていたのに父が来て、苦虫をつぶしたような顔をして、私の隣に座っていた。新郎新婦の紹介のあと、一枚の紙切れで、誓いの言葉を読んだあと、司会者が、それでは愛のしるしに、二人でキスを、といったものだから、父がすっくと立って人前で、破廉恥なと真っ赤になって怒り出し、座を立ってしまった。

 座が白けてしまったが、司会者が、失礼しました。お父様にとっては当然のことです。ととりなしてくれたので私はほっとした。それから料理をつまみながら、座興に移った。われもわれもと、歌がでて、終わりの方になると大合唱になってしまった。彼の方の友達で、ソプラノで、ロシア民謡のともしびを歌ってくださったのが圧巻だった。また男性が、リゴレットの女心の歌を、すばらしいテノールで朗々と歌い上げてくれたのには感心した。結婚式にはあわないね、というひそひそ声も聞こえたが。

 無事会も終わり、家に帰ってみると、部屋の真ん中に、新しい布団と一緒に彼のおかあさんが、座っていた。

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ホラーのような終わりだが、このエピソードはここで終わりで、続きはない。

 

さて、きれいに身支度を整えた祖母の横にぼんやりと座っていると、葬儀社の人が「最後にさわってあげてください」というようなことを言った。祖母の手は、むくんでいるので見た目はぷにっとしていて、しかもさきほどのシャワーの湯気の印象があるので(そしていつもの印象があったので)暖かいような気がしていた。でも触ると驚くほど冷たかった。