アオヤギさんたら読まずに食べた

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頭の中のモヤが晴れる瞬間があり、PayPayをインストールした

いろいろやりたいことはあるけれど、それ以上にできないことが多い。頭の中にふんわりとモヤがかかっているような感じで、「なんとなくできないな」という気持ちになっている。

私の場合はそれはiDeCoの申し込みだったり、資格試験の申し込みだったり、使っていないWebサービスの解約だったり、請求書の提出だったり、溜まっていたゴミの片づけだったりと、「まあやったほうが人生はちょっとよくなるな」ということ、やったほうがいいことを完全に理解(understood)しているが動けないものである。

1カ月に1~2回くらい、そのモヤが晴れる瞬間がある。なんだか知らないが体が動き、さまざまな申し込みができる。そのタイミングがいつ来るかはわからず、夜中の12時すぎに突然始まったりする。

昨日の夜は完全にそんな日で、ふと「……あっ、今ならPayPayのアカウントを開設できるな」と思った。なんでこのタイミング? と思う人も多いだろう(いま別になんのキャンペーンもやってないし)。私もそう思う。しかし私はずっとPayPayのアカウントを開設することができないでいた。

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一番大きな壁はハード面だった。私のpixel4(画面の液晶がバキバキに割れている)の容量がいっぱいでアプリを新規にインストールすることができない。かつ、回線はLINEモバイルでそんなにバリバリ早いわけではないのでできれば家の通信環境でインストールしたい。ということから、出先でインストールがとてもダルく、しかしPayPayをインストールしたくなるのはきまって出先なのであった。

特に「あ~、PayPayいいペイね…」と思ったのは旅行中だ。PayPayの営業部隊はすごい。今年の冬に佐渡にいったときも、どの個人店もPayPayだけは対応していた。こないだ岩手に行ったときもなんかすごい還元キャンペーンをPayPayだけしていた。PayPayの営業、日本で踏んだことのない土地はないのでは?というくらい、PayPayが使えるところは多い。

私はおもにLINE Payを使っているが、LINE Payはたとえば水道代がLINE Payで払える的な公と組むのはちゃんとやってくれるものの(余談だが水道代がコード読み取りで払えたとき私はメチャクチャ感動した。水道料金の知らせを受け取りコンビニに向かうのも、水道料金の口座振替申請を行うのもややダルで、過去何度も支払いが滞ったことがあったため……余談カッコが長くなってしまった)、そういう個人店営業は力及んでいない感じがする。

というわけでPayPayを入れたいとここ半年くらい思っていたが、なかなか入れられなかった(こういうユーザーはマーケティング担当者にとっては「なんやねん、入れたいなら入れてくれや」と思わせてしまうものでしょうか)。が、昨日、突然、「今ならできる!」となり、無事にPayPayインストール→アカウント開設→銀行口座の紐づけまで終わらせることができた。

こういうときの感覚はなんというか「目が開いてる」という感じ。アプリをインストールするためにほかのアプリや画像などを削除し、インストールに成功、なんだったらPayPayと紐づけるとオトクというヤフーカードまで口座開設申し込みをした(今朝審査完了の通知が来ていた)。やった~、これでわたくしもヤフー経済圏の仲間入りよ。

処理能力が高い人、事務作業が得意な人というのは、常に頭の中のモヤが晴れている状態なのではないかと思う。とてもうらやましい。この状態を長くしたり回数が多くなったりしないものかなとずっと思っているけど、いまのところそうでもない。やっていきたい……。

あと私がよくつまずいている壁は、モヤが晴れた瞬間の私がやったことを、その瞬間が過ぎ去った私が処理しきれないことがあるときだ。具体的にはiDeCoがそれで、申し込みはキリッとした私がやってくれたが、後日資料が届いたときの私はキリッとしておらず、そのままになっている。キリッ状態にできることはできるだけその日のうちに完結するものがいいですね。

イマジナリー実家概念

今年の8月、実家がなくなった。東京多摩地区のほうにある家族3人が過ごしていたマンション。けれどここ5年ほどは私も姉も外に出てしまっていて、母が1人で住んでいた。そしてその母も定年退職に伴うネクストステージとして1年~数年間海外に行くことになり、誰も住まなくなってしまうため売却へ。

コロナの影響で内見ができない期間があって、大丈夫なんだろうか…とドキドキしたり、定年退職を送別会の形で盛大に祝ってもらえず海外での仕事も音沙汰がなくなった母がダウナーになったりでハラハラしたが、無事購入者が見つかり、契約も済み、私の実家はなくなった。

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最後の日のマイルーム

でも場としての実家がなくなっても、感慨深くはあったが寂しくはなくて、まあこちらの生活をよくしていきたいニャンね…くらいの気持ちではあったのだが、9月末に母が海外に発ち、それはそれはもう寂しくなってしまった。

私は薄情なマザコンなので、母は大好きだがずっと一緒にはいたくなく、でも会ってるときはいい娘だと思われていたいし、できるだけ母は友達とか趣味とかでひとりで楽しくやっていてほしいという思いがある。でも母のことは大好きで一緒にいるときはずっとくっついていたい……。

(こうやって明記するとなんと都合のいい欲望なのか。姉の母への感情はもう少し責任感があって、母への愛情と同時にもどかしさや「お姉ちゃんである私がちゃんとしないと」という責任感を抱いているようだ。ちなみに私はシスコンでもあり、お姉ちゃんにはそこそこ頼りにされたいが一方で無限に甘えていたいという甘ったれ妹として生きている。姉の息子である甥にがぜん張り合える。うざい妹になるから張り合わないけど……)

私にとっての実家というのは、あのマンションではなく、母がいる場所ということで、つまりここ数年の私の実家は海外の向こうにあるということになる。とてもさみしい。昨日はふとんの中でシクシク泣いていたら寝落ちした。泣きながら寝落ちすると一晩の睡眠を無駄にした感じがしてくるのでしないほうがいいです。

「暮らし」への複雑な思い 「暮らし」はいつだってバカにされ利用されてきたので

私は元汚部屋住人で、部屋の片づけをなんとか乗り越えた過去があります。いまは二人暮らしの家を少しずつ快適な状態が長いようにいろいろ工夫をしており、ニトリにいるときは無限の夢を感じていて幸せだし、ニトリで買ったフレグランスが帰宅してふわっとにおってくると「は~~~~~~(大満足)という気持ちになります。

しかし一方で生活を整えること(ここでは「暮らし」と呼びます)にドハマリすることへは複雑な思いがあります。よく暮らすことはごく個人的なもので、かつその個人に大きな影響を与えるものでありながら、性別役割分業の風を受けやすく、かつそこから発展されて軽視されやすく、かつ利用されてきたからです。「30代の既婚の女」というタグをもつ自分がこの活動にドハマリすることは、暮らしが持たされている“偏見”を強化する方向には向かえど、その逆はないなと思います。

 

●暮らしの利用

「ていねいな暮らし」の利用については大塚英志さんの記事が非常に面白いです。

www.webchikuma.jp

この話は戦時下ですが、どんどん日本が貧しくなっていて、みんながユニクロとGUを着て、みんながニトリと100均と無印をなんとなくチェックしているという光景が当たり前になっているのを見て、「自助、共助、公助」みたいなことが言われているのを見ると、別ベクトルの話ではありますが「社会の貧しさ」というところで合流して重ね合わさるのを感じます。

社会が貧しい中で「今ここの私たちのくらし」をよいものにしようとする試みは、私たちのウェルビーイングには確かにメチャクチャ寄与するのですが、一方でそうやって勝手にウェルビーイングになってくれる人たちというのは非常に都合がいいわけです。

私はミニマリストの思想には共感しませんし、自分はなれないな~と思うのですが、一方でミニマリストのような全部を外部化していく(冷蔵庫はいらない→コンビニがあるから、卒アルを捨てる→いらないし見たくなったら誰かに見せてもらえばいい)のは意義のあることだと思っていて、一方でコロナの買い占めのときのように外部が不安定になると暮らしも不安定になるわけで、「ミニマリストやめました」みたいなの見てシュンとします。しかしミニマリストが安心して生きていける社会のほうが絶対に余裕がある社会なんですよ……。

 

●暮らしの軽視

くらし、家の中に関することはここ100年くらいの歴史的には女性が担うことが多く、ここ50年くらいの歴史的には女性の役割とされてきました。それをひきずってか、暮らしの維持というものはなんとなく軽視されている感覚があります。

この『失踪の社会学』に関する鼎談で、やや本筋とは違うトークの部分が非常に面白かった。黒嵜想さんが鬱になり、そこから「今・目の前のくらし」に集中することで回復してきたという。

note.com

 

でも詳細は省いて結果から言うと、その鬱からはひとりで解決して戻ってこれたんです。
(中略)
今日起こったことにだけ集中するって決めて日々を過ごしたんですよ。今日には今日しかないことが起こっているはずだ、と目を凝らして生活したんです。でも、特別なことをしたわけでもない。僕がしたことといえば、片付けと、料理と、服を買いに行くこと、花の世話をしてみること。そうすると、あることに気がついたんですよね。たとえば、昨日と同じ料理を作っても……ってこれ、信じられないぐらいユルいこと言ってるけど大丈夫かな……(笑)
(中略)
鬱のさなかで僕が試したのは、これまで僕がもっとも軽蔑し嘲笑していた「ていねいな生活」だった。そして、経験を経て思ったのが、いわゆる「ホモソーシャルな文化」といったものの弱点です。

このへんの話はもろに『居るのはつらいよ』と接続するので、本筋としてはそちらだと思うのですが、私は非常に率直な感想として「やっぱりていねいな生活を軽蔑し嘲笑していたんじゃん!!!!」とぷんすかしました。

 

 

まあくらしを軽蔑して嘲笑してしまうのは個人ではなく社会が悪いんですよ。 

暮らし改善本の中でも「こんまりメソッド」はややネタにされやすく(特に本やグッズが多いオタクには批判されやすいという印象)、一方で勝間和代さんのような「ライフハック」は自然に受け入れられがちです。

こんまりメソッドそのものにそもそも好悪ありますが、それはいったん置いておいて、前者からはややスピリチュアルの香りがし、後者からはしてきません。勝間さんのライフハックは相当極端なところがあり、ライフハック怪人じゃんと思うことは多いのですが、「あなたがときめかないものを捨てましょう」より「料理の際は塩分濃度をきっちり計算せよ」のほうが「なんかいい」気がするんですよ。私はこの「なんかいいよね」みたいな、ふわっとした気分よりも極端なビフォーアフターのほうが受け入れられやすい世界というものに対して猛烈な反感を抱いています。

ほとんどの暮らしというのは、発生する「マイナス」を「ゼロ」にするというまさにケア的な作業なわけですが、この作業というのはとにかく軽視されやすく(労働になったときの賃金も低い)、この作業が人間にとって大事であることというのも軽視されやすいです。

 

しかし私はそれでもなお暮らしが好きで、暮らしをよくできるとヨッシャ!となりますし、暮らしが荒れ果てていくとシュン…となります。自分にとって必要なものであるという感覚と、それ以上の愛着と、そして軽視の圧力を(内面化している自分自身からも)感じながら、今日もニトリのホームページをぼんやり見ています。

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このニトリルームフレグランス(岩)、においがふわっとしていてよいです。いまは玄関に置いている。あとニトリのシーツも最高。そうやって暮らしがニトリに支配されていく…。