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アオヤギさんたら読まずに食べた

インターネットで書いたことや考えたことなどをまとめます

「卒業おめでとう」と僕もいつか言うようになる

創作実話

これはフィクションなんだけど、大学時代の友人にT君という男の子がいた。T君は中高一貫の男子校に通っていて、あまり女慣れをしていなくて、しゃべるのはそう得意ではなかったけれど、よく本を読んでいて、頭のいい人だった。大学1年生のときは語学のクラスが同じでたびたび話していたし、1回や2回は少人数でお茶をしたことがあったけれど、大学2年生のとき、クラスメイトの(すこし精神が不安定な)女性と付き合いだし、彼女の独占欲によって私は“切られた”のだった。

私の周りの先輩や友人は社会からの逃避を望み、留年したり大学院進学を選んでいたりしたが、彼は堅実に4年で卒業した。就活は苦戦しつつも、最終的には大手と呼ばれる出版社に入ったと聞いた。

 

そんな彼と、大学を卒業してから数年ぶりに再会した。ふとしたきっかけで連絡を取ることになり、社交辞令を応酬するうち、その社交辞令を「これは社交辞令ではない」とごまかすためのように、あれよあれよと2人で会う予定が決まった。恵比寿のきれいなタイ料理屋で久しぶりに会った彼は少し太っていて、少し肌が荒れていて、少し疲れた顔をしていた。

彼とのコミュニケーションはやりやすかった。お互い、既にインストールされているテンプレートで話していけばいい。最近面白いと思ったこと、インターネットの炎上案件、昔のクラスメイトの変な話、会社の悪習。時折「それは最悪だ」「わかる」「引いた」を言ったり言わなかったり、そして2時間が過ぎれば、「楽しい飲み会」はお開きだ。

「そういえば、大学の時に付き合っていた彼女はどうしたの?」「社会人1年目で別れたよ。『私と仕事どっちが大事なの!?』と泣かれて」「そんなことを本当に言う人がいるのか」「彼女の要求を満たすためには仕事を辞めなきゃいけない、だってどうやっても気持ちじゃ帰れないんだから」「じゃあ振ったの?」「振られた」「えっ」「他のもっと暇な男のところに行った」「かわいそうに」「でも今でもしょっちゅう『さびしい』ってLINEが来る」「かわいそうに」「どっちが?」

こんな話ですら、テンプレートの応酬で喋ることができる。20代も半ばになると、面倒な恋愛はすべて類型化されていて、語り手も聞き手もキャッチボールがうまくなりすぎるきらいがある。

 

ふと、T君は言葉を止めた。初めてのぎこちない沈黙だった。

「……あのさ」「なに?」「変なこと……女の人に言うには微妙かもしれないことを言ってもいいかな」「どうぞ」

彼は話し出す。

「社会人1年目、上司や取引先に連れまわされて、いろんなお店に行ったよ。僕は童貞ではないんだけど、同期や先輩たちのあいだでは童貞扱いされていて、まあ実際彼らの経験人数から見るとほぼ童貞みたいなもので、さらにいえば正面から相手にするのも面倒なので放っておいた。で、その夜連れていかれたお店は、女性がもてなしてくれる、いわばそういうところだった。うちの会社には、風俗や高級クラブのリストが代々受け継がれていて、先輩が後輩を連れていくことが通例になっているんだ。僕はそのお店にいって、サービスを受けて、受け終わって、僕よりも先に入った先輩を待合室で待っていた。出てきた先輩は嬉しそうに笑って、僕の肩を親しげに叩いて、そして心から祝っているような声で言うんだ。卒業おめでとう」

「卒業おめでとう」

「卒業おめでとう。そのとき僕は、ものすごく吐きそうになった。さっき女性から受けたサービスが、あの手の持ち主が、一瞬先輩であるかのように見えた。僕はあの女性を介して、先輩から性的に触れられていたんだと思った。叩かれた肩がじわじわ不快で、でも、ちゃんと楽しそうに笑ってお礼を言えたと思う」

インストールされたテンプレート。こういうときにはこうするべきだといつのまにか刷り込まれた規範。

「そういうことばっかりある。そうしているあいだに、僕もだんだんわからなくなってくる。楽しそうにしているのか、本当に楽しいのか、ちっともわからなくなる。仕事だけじゃなくてプライベートもそう。彼女はいるよ、いるけど、彼女が好きだから付き合っているのか、彼女というものを作っておかないと職場の人とうまく付き合えないから付き合っているのか、時々わからなくなる。最近思うんだ。僕もあと数年したら、童貞みたいな顔をした僕に似ている男を、僕らが知っているいい店に連れていくのかもしれない。卒業おめでとう、と僕もいつか言うようになる。そうなっちゃったら、どうしたらいいんだろう」

そこまで言って彼は、私の反応を聞くことも見ることもなく、「ちょっとトイレ行ってくる」と立ち上がった。次に戻ってきたときの彼は、またなめらかにしゃべる彼に戻っていて、私たちは2時間半の飲み会をつつがなく終えた。