アオヤギさんたら読まずに食べた

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僕たちがナンパをする理由

これはフィクションなんだけど、井の頭線渋谷駅を通過しようとしたその瞬間、声をかけられた。「お姉さん今帰り?友達と飲んでたの?俺もそうなんだよ」。お手本のようなナンパだった。

これは悪癖のようなものなのだけど、ナンパをされたとき、確実に帰れる時間の余裕がある場合は時折ついていく。適当に話を聞くこともあるし、「ナンパ師に興味があるのであなたのことを教えてほしい」と話す場合もある。その日の気分は後者だった。

「ねえLINEやってる?教えてくれない」「ツイッターのアカウント教えてくれますか?」「やってないよ」「お兄さん、30分だけ時間ありますか?」「え、あるけど」「じゃあ、30分だけ飲みましょう。あなたの話に興味があるんです」

そう言って入ったビアバー。黒縁メガネの男性は、29歳で、コンサルをやっているという。荷物は持っておらず、飲み会帰りのようでわずかに酔っていた。

「あなた、なんなの?」

「個人的にナンパ師に興味があって。名前教えてくれますか?」

「嫌だよ」

「じゃあ斉藤さんって呼びますね。斉藤さんは普段からよくナンパをしているんですか?」

斉藤さんは「なんなの」と言いながら、それでも黙りこくったりはしない。

ナンパは酔うとたまに。打率はそこそこ。改札の前が最近調子がいい。友達のほうがよくナンパをしてる。場所はコリドー街とかそのへんで。ナンパをしてる理由? そんなの性欲だよ。俺たちの友達みんな、いろんな女の子をヤリ捨ててる。

「でも、斉藤さん、普通にかっこいいし、普通に女慣れしてるじゃないですか。彼女もいますよね?」

「うん、まあ、そりゃいるよ」

「性欲を解消したいなら、彼女とかセフレとか、わざわざ見知らぬ人相手にしなくても、継続的な相手のほうが楽ちんなんじゃないかと思うんですけど。刺激が足りないとかそういう?」

「…わかってないなあ。俺たちがナンパをするのは、男に自慢したいからだよ」

斉藤さんはちらりとスマホに視線を投げる。

「LINEグループがあるんだよね。そこに、ナンパが成功したらみんなシェアしてる。女の子の写真を隠し撮りして、やってるときももちろん撮って、そのグループに流してる。こんな可愛い子とやったよ、こんな可愛い子をやり捨てしてやったよ、こんな可愛い子をセフレにしたよって自慢する。それが楽しくてナンパをしてるんだよ」

茶化すのは控えた。

「教えておくけど、ナンパに着いてったら、絶対無音カメラで盗撮されてるよ。ハメ撮りとかも絶対に撮られてるし、LINEのやり取りもスクショして流してる。お姉さんLINEの登録名本名にしてる?もししてたら、俺たちはその子のFacebookを検索してみんなで共有する。この子ビッチだなあって盛り上がっておもちゃにしてるんだ」

「斉藤さんもやってるんですか?」

「俺はしないよ。どっから流出するかわからないじゃない」

「斉藤さんもハメ撮りを?」

「俺はしないよ。別に男に認められなくてもいいし」

「嘘つきだなー」

「うん、これまで言ったことは全部嘘。他に何か聞きたいことある?ホテル行こうか?」

「私の写真も撮るんですか?」

「撮らないよ。行く?」

「嘘つきだなー。既婚者だから行きません」

そろそろタイムアップだった。もう斉藤さんの心のシャッターはしっかり降りていて、本当らしいことは何も聞けそうになかった。残りの約5分間はどうでもいい話でクロージングだ。

「最後に聞きたいことがあるんですけど」

「なに?」

「ワンピースとジョジョは何編が好きですか?」

「ワンピースは空島。ジョジョは2部」

「特別な不倫」というものはひとつも存在しないの

これはフィクションなんだけど、私には4歳上の友人がいる。彼女とは私が小学校6年生の時からの知り合いで、インターネットのオフ会で出会った。彼女は26歳、今の私と同じ年に結婚した。彼女から「会おうよ」とDMで連絡が来たのは実に2年ぶりで、私はホイホイと渋谷のサイゼリヤに向かった。

サイゼリヤで彼女はいつも最初にランブルスコを注文する。お互いのグラスに注ぎ、乾杯をし、唇を潤して、それからすぐに彼女は本題を話し出す。

「旦那がね、不倫をしたんだよね。しかも重めのやつ。火遊びじゃなくて、本気のやつ」

2年ぶりに会ったにしてはいささかヘビーな出だしではあった。旦那。私は思い出す。彼女の配偶者はいったいどんな人だったっけ。なんだかすごく、ふつうな人だったような。

私の表情を読んだかのように、彼女は頷く。

「うん、ふつうの人だよ。ふつうに優しくて、ふつうに働いていて、ふつうに私のことを大切にしてくれていた。そして、ふつうに浮気をして、ふつうに燃え上がってしまって、ふつうに私にバレちゃった」「どうしてバレたの?」「LINEの通知が、メッセージ非表示になるように変わってて。今までそんなことなかったのに」「わー」「携帯のパスワードも変わってて」「うわー」「寝てる間に彼の親指当てて解除したら、まあすごいメッセージばかりだったね」「わあ……」

きっかけはというとこれまたよくある話で、高校の同窓会で、ごく短いあいだ付き合っていた女性と再会したのだという。お互い既婚者で、家庭のささやかな愚痴から始まり、過去の思い出話、そして。

「どう思う?」

彼女が尋ねてくる。私は言葉を選ぼうとして、結局うまく選べなかった。

「すごく、ふつうだと思う」

「でしょ? 私もびっくりした。1から10までテンプレでしょ? こんなの小説に書いたら先が読めすぎるって読者から怒られちゃうよ」

でもね。

「恐ろしいことに、旦那はこれが『ふつう』だとは少しも思っていないの。なにか特別なことが自分たちに起こっていると思っている。特別な自分たちに、特別なストーリーが降りかかっていると思っているんだよ。旦那は『物語の主人公』で、あの人は『ヒロイン』で、そして私は……なんだろうね」

はためから見れば類型化されたお決まりの陳腐なラブストーリー。

でも彼らにとっては、特別に彩られた物語。

「そりゃあ気持ちいいよね。そりゃハマっていくわけだよ。脳内物質がドバドバ出て、どんどんエモーショナルな気持ちに飲み込まれていく。会えなくてさびしいねってLINEで打つたび、頭の中には感動的なBGMが流れてる。実写化したら、男は高橋一生で、女は黒木華になるんじゃないの? 一方でさ、家庭にはエモも物語もないの。星野源じゃないけど暮らしがあるだけで、なんなら流れている映像は『サザエさん』だよ。もう作画どころか放送時間帯が違うの」

それって、ひどい話じゃない?

彼女はそう言う。

「……どうするの? 問い詰めるの?」

「そんなことしたら、さらに悲劇のストーリーに巻き込まれるだけ。私はあの人たちに利用されたくないの。私は私の物語の主人公であって、あの人たちのお話の登場人物にさせられるのには我慢ができない。だからね、絶対に言わない。ばれてるよ、知ってるよ、あなたたちはつまらないことをしているよって言わないことに決めた」

「でもそれはそれで悔しくない?」

「悔しくないよ」

彼女は笑う。

「私もね、陳腐なお話の主人公になることにしたの。すごく普通で、すごく普通の物語。……思った通り、すごく気持ちよかった」

「卒業おめでとう」と僕もいつか言うようになる

これはフィクションなんだけど、大学時代の友人にT君という男の子がいた。T君は中高一貫の男子校に通っていて、あまり女慣れをしていなくて、しゃべるのはそう得意ではなかったけれど、よく本を読んでいて、頭のいい人だった。大学1年生のときは語学のクラスが同じでたびたび話していたし、1回や2回は少人数でお茶をしたことがあったけれど、大学2年生のとき、クラスメイトの(すこし精神が不安定な)女性と付き合いだし、彼女の独占欲によって私は“切られた”のだった。

私の周りの先輩や友人は社会からの逃避を望み、留年したり大学院進学を選んでいたりしたが、彼は堅実に4年で卒業した。就活は苦戦しつつも、最終的には大手と呼ばれる出版社に入ったと聞いた。

 

そんな彼と、大学を卒業してから数年ぶりに再会した。ふとしたきっかけで連絡を取ることになり、社交辞令を応酬するうち、その社交辞令を「これは社交辞令ではない」とごまかすためのように、あれよあれよと2人で会う予定が決まった。恵比寿のきれいなタイ料理屋で久しぶりに会った彼は少し太っていて、少し肌が荒れていて、少し疲れた顔をしていた。

彼とのコミュニケーションはやりやすかった。お互い、既にインストールされているテンプレートで話していけばいい。最近面白いと思ったこと、インターネットの炎上案件、昔のクラスメイトの変な話、会社の悪習。時折「それは最悪だ」「わかる」「引いた」を言ったり言わなかったり、そして2時間が過ぎれば、「楽しい飲み会」はお開きだ。

「そういえば、大学の時に付き合っていた彼女はどうしたの?」「社会人1年目で別れたよ。『私と仕事どっちが大事なの!?』と泣かれて」「そんなことを本当に言う人がいるのか」「彼女の要求を満たすためには仕事を辞めなきゃいけない、だってどうやっても気持ちじゃ帰れないんだから」「じゃあ振ったの?」「振られた」「えっ」「他のもっと暇な男のところに行った」「かわいそうに」「でも今でもしょっちゅう『さびしい』ってLINEが来る」「かわいそうに」「どっちが?」

こんな話ですら、テンプレートの応酬で喋ることができる。20代も半ばになると、面倒な恋愛はすべて類型化されていて、語り手も聞き手もキャッチボールがうまくなりすぎるきらいがある。

 

ふと、T君は言葉を止めた。初めてのぎこちない沈黙だった。

「……あのさ」「なに?」「変なこと……女の人に言うには微妙かもしれないことを言ってもいいかな」「どうぞ」

彼は話し出す。

「社会人1年目、上司や取引先に連れまわされて、いろんなお店に行ったよ。僕は童貞ではないんだけど、同期や先輩たちのあいだでは童貞扱いされていて、まあ実際彼らの経験人数から見るとほぼ童貞みたいなもので、さらにいえば正面から相手にするのも面倒なので放っておいた。で、その夜連れていかれたお店は、女性がもてなしてくれる、いわばそういうところだった。うちの会社には、風俗や高級クラブのリストが代々受け継がれていて、先輩が後輩を連れていくことが通例になっているんだ。僕はそのお店にいって、サービスを受けて、受け終わって、僕よりも先に入った先輩を待合室で待っていた。出てきた先輩は嬉しそうに笑って、僕の肩を親しげに叩いて、そして心から祝っているような声で言うんだ。卒業おめでとう」

「卒業おめでとう」

「卒業おめでとう。そのとき僕は、ものすごく吐きそうになった。さっき女性から受けたサービスが、あの手の持ち主が、一瞬先輩であるかのように見えた。僕はあの女性を介して、先輩から性的に触れられていたんだと思った。叩かれた肩がじわじわ不快で、でも、ちゃんと楽しそうに笑ってお礼を言えたと思う」

インストールされたテンプレート。こういうときにはこうするべきだといつのまにか刷り込まれた規範。

「そういうことばっかりある。そうしているあいだに、僕もだんだんわからなくなってくる。楽しそうにしているのか、本当に楽しいのか、ちっともわからなくなる。仕事だけじゃなくてプライベートもそう。彼女はいるよ、いるけど、彼女が好きだから付き合っているのか、彼女というものを作っておかないと職場の人とうまく付き合えないから付き合っているのか、時々わからなくなる。最近思うんだ。僕もあと数年したら、童貞みたいな顔をした僕に似ている男を、僕らが知っているいい店に連れていくのかもしれない。卒業おめでとう、と僕もいつか言うようになる。そうなっちゃったら、どうしたらいいんだろう」

そこまで言って彼は、私の反応を聞くことも見ることもなく、「ちょっとトイレ行ってくる」と立ち上がった。次に戻ってきたときの彼は、またなめらかにしゃべる彼に戻っていて、私たちは2時間半の飲み会をつつがなく終えた。